一斉合唱とコンセンサス

那須 翔 経団連副会長


「一犬虚に吠え万犬声に吠える」という古語があるが、まるで今の世相を言っているようだ。あたかも大多数のコンセンサスに見えるような大合唱が、意外にも、その構成員めいめいの考えとも違う見せかけの時流にしかすぎないことがかなりある。

昔はサイレント・マジョリティという言葉が世相判断のひとつの鍵であったが、今はそれも変わってきた。なぜそうなったのだろうか。便利なキーワードやキャッチフレーズがありすぎて、昔は沈黙していた人々も、今やそれに和して沈黙を破るようになっているのだと思う。この一見浮気な一斉合唱を社会の退歩現象と片づけるのは安易な判断である。やはり社会の成長や変革の一過程と見るべきであろう。

それではどうするか。私は、天の邪鬼(あまのじゃく)がもっと自己主張をすべきだと思う。めいめいが自分の考えを、キーワードやキャッチフレーズによらず、もっと論理的に、しかも分かりやすい言葉で、マジョリティに話しかけるのが必要ではないか。しかもそのマジョリティというのは、抽象的な不特定多数ではなく、まず隣人に現実に基づいて語りかけるべきであろう。

現代は、政治、経済、社会、すべて不安な時代である。その中では「何々が、どこそこが悪い」という声が各層から生じやすいが、責任転嫁と思えるようなものも少なくない。「素人(しろうと)は黙っていろ」などと言うつもりは毛頭ない。むしろ専門家のほうが全般を見ない誤謬(ごびゅう)に陥っていることも事実であり、謙虚に、静かに、いろいろな意見を聴くのは当然である。

しかし、積み上げた思索や経験の裏付けのないあまりに無責任な評論が、一斉合唱を誘発し、世の中のコンセンサスの如く扱われるという風潮が、各分野で毎日汗を流しながら命がけの仕事をしておられる方々の障害となっていることは見逃せない。私は、社会の構成員がそれぞれの立場でやるべきことをまず実践し、その上で発言もしていくという、自己責任の原則を大切にしたい。

このような風潮は、われわれ自身に対する警鐘でもある。つまり、ひとつの言葉がどう受け止められるかについて十分に考えて提言や方策をまとめないと、皆が同じ言葉を使いつつ、実はそれぞれが違ったことを考え、違った行動をとるということにもなりかねない。ひとつひとつの言葉の意味を大切にして、目的、目標、手段に関する議論を尽くし、専門家でない人々も含めて皆が共通の理解を持てるような、しっかりした方策をつくり上げることが、従来にもまして重要になっている。これが現代社会の中で、真のコンセンサスを導き出すためのプロセスなのではないだろうか。(なす しょう)


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