日本・インドネシア経済委員会(興津誠共同委員長、辻亨共同委員長)は1月24日、今清水浩介情報処理推進機構理事・前日本貿易振興機構(JETRO)ジャカルタ・センター所長を招き、懇談会を開催した。
今年2008年は、日本とインドネシアが外交関係を樹立してから50周年に当たる「日本インドネシア友好年」であり、両国では、友好年を祝し、国民の交流と世代を超えた相互理解の拡大・深化に向けて、さまざまな記念行事が実施される予定である。そこで、インドネシアへの理解を一層深める観点から、昨年6月までJETROジャカルタ・センター所長を務めた今清水理事を招き、3年間のジャカルタ勤務経験を踏まえ、今後の日インドネシア関係の強化に向けた課題などについて説明を聴いた。今清水理事の説明要旨は次のとおり。
04年6月から昨年夏までの3年間を振り返ると、インドネシアをめぐる政治経済情勢は大きく揺れ動いた。
04年10月、同国史上初の国民投票によってユドヨノ大統領が就任し、翌11月、奥田碩日本経団連会長(当時)がインドネシアを訪問した。これは新政権に対する日本経済界の高い期待の表れと言えよう。
こうした中、インドネシアの投資・ビジネス環境整備に向けた対話の枠組みとして、「官民合同投資フォーラム」が立ち上げられた。従前はジャカルタ・ジャパン・クラブ(現地日本商工会議所)が政策提言活動を行っていたが、日本の官やインドネシアの民も加わる枠組みが構築された。04年12月、中川昭一経済産業大臣(当時)参加の下、ジャカルタで第1回全体会合が開催され、インドネシアの投資環境改善や経済改革に対する期待感が大いに高まった。
この期待感に冷水を浴びせたのが、同年12月26日に発生したスマトラ沖地震である。政権は被災者救済、復旧作業に追われ、改革への機運が一気に停滞した。
05年5月、ユドヨノ大統領が初めて来日し、小泉純一郎総理(当時)との間で、日インドネシア経済連携協定(EPA)交渉開始が合意された際には、先行きに対する期待感が依然として感じられたが、06年になると、自動車・二輪車の国内販売台数が対前年比5割を下回るなど、改革の遅れが実体経済にも影響を及ぼし始め、06年1―3月期、インドネシア経済はどん底の状態に陥った。
こうした状況下、05年12月の内閣改造によって経済担当調整大臣に就任したブディオノ氏が手腕を発揮した。同氏はメガワティ政権で財務大臣を務め、学者ながら実務能力に長けた人物として国内外の評価が高い。ブディオノ大臣は、投資環境改善のための政策パッケージを矢継ぎ早に発表するなど、改革に向けた諸施策を実施した。こうした一連の政策が奏功し、また一次産品の国際価格が持ち直したことなどもあり、06年後半にかけて経済が徐々に回復に向かった。
06年11月、ユドヨノ大統領が2度目の訪日を果たし、日インドネシアEPAが大筋合意に至った。また、日本経済界が長らく希求していた新投資法も07年3月に国会で成立し、ユドヨノ氏が大統領選挙で公約していた案件がようやく実現した。時間はかかったが、07年6月の帰任までの間、改革は着実に進展してきたというのが私なりの評価である。
07年8月に署名されたEPAの批准・発効が待たれる一方、08年は改革の成否を決する総仕上げの年と位置付けられる。また、今年は日本とインドネシアが外交関係を樹立してから50周年という節目の年でもある。
日本経済界には、インドネシアを叱咤激励しながら、両国関係をさらに緊密化するようお願いしたい。