月刊・経済Trend 2011年12月号別冊 寄稿〜震災後、企業はどう取り組んだか

キリンビール

仙台工場長
横田乃里也
(よこた のりや)

2011年3月11日に発生した巨大地震と大津波により、キリンビール仙台工場は大きな被害を受けた。幸い従業員は全員無事に避難できたが、あの日から現在までどのような活動を行ってきたのかを振り返るとともに、今後の課題を整理しておくことは、大震災から半年が過ぎた今、大変良いタイミングだと思われる。一企業の事例ではあるが、参考にしていただけると幸いである。

地震・津波そして避難

仙台市港エリアに立地するキリンビール仙台工場は、2011年3月11日午後2時46分、震度6強の強い揺れに襲われた。従業員は、揺れの開始とともに各職場で安全な場所に一次避難したが、事務所の机の下に避難した社員の目には、ゆっくりと倒壊するビール貯蔵タンクが映っていた。この時400キロリットルのビール貯蔵タンクが4基倒壊していた。

その後、社員は冷静に一次避難所から、二次避難所である事務所前に集合し、点呼による安全確認を行った。ラジオから大津波警報が発令されたという情報を入手し、急遽事務所屋上に避難させた。雪の降る寒い日であったが、地震とともに地域一体は停電しており、粛々と全従業員が非難できたのは、日頃の訓練の賜物である。同時に、工場見学のお客様、工事業者、地域住民や企業の方々も一緒に屋上に避難することができた。当工場の事務所は仙台市との協定で「津波避難ビル」に指定されているからである。地震発生から30分程度で、社外の方々129名を含む総勢481名の避難が完了した。

約1時間が経過した頃、仙台市にも津波が押し寄せた。仙台港の津波高さは7.2mと言われているが、工場の敷地は海抜5m以上あるため、工場の津波高さは最大2.5mであった。屋上に避難した従業員が目にしたのは、津波とともに倉庫にあったおびただしい数の製品やパレットが流れて来る姿である。車やコンテナも含む津波は驚くほどのスピードで流れ、従業員はただ呆然とその様子を見守るしかない状況であった。このような状況のなか481名が無事だったのは、いま思うと奇跡である。

一夜を明かした従業員や社外の方々は、自衛隊のトラックに乗って、翌日に近隣の行政の指定避難所に移動することができた。工場内外では水は引いていたが、混乱した状況であった。従業員の安全が確保できた安堵感に浸る間もなく、翌日には、管理職を中心とした現地対策本部を営業の事務所を間借りして開設し、従業員の家族や自宅の状況、現在の所在地を確認する安否確認の作業を開始した。それが混乱を乗り越えるための第一歩であった。この作業には約1週間かけ、念入りに行った。

パッケージング棟

震災直後

床も塗装し直し、衛生環境も整った。

「チームキリン」の成果

3月20日頃より少しずつではあるが、工場内外に散乱した製品などの片付けを開始した。まずは工場周辺の住宅・事業所を訪問し、散乱した製品をお詫びしながら回収する日々が続いた。「キリンさんも大変だね」と声をかけていただくことの方が多かったが、近隣の方々にご迷惑をおかけしたという気持ちで一杯であった。その後、工場周辺の片付けが一段落してきたので、工場事務所に入るための通路や駐車場のスペースを確保する作業に移った。

工場復旧のための計画作りは少しずつ本社主導で進んでいたが、工場に散乱した製品の回収は工場従業員の役割であるので、毎日辛い仕事であるが、除々に清掃範囲を拡大しながら進めた。5月11日からは全社員が出勤してスピードアップしたが、それでも清掃が完了するには6月末まで約3ヶ月を要した。

それにしても清掃作業は、泥にまみれながら腰をかがめた姿勢での長時間作業で大変であったが、それを毎日黙々と継続できたのは驚きである。工場従業員がひとつの目標に向かい力を結集したこと、従業員の工場を再開させたいという強い思いがあったことなどが要因であると思うが、東北人の忍耐強さ、粘り強さも一因であろう。また、日頃から会社の部門を越えて連携する活動を行っていたので、他部門からの多数の応援者も活動を支える力になったと思う。まさに「チームキリン」の成果である。

ブライトビアタンク

震災直後

倒壊したタンクを撤去し、補修工事中。

工場存続の決定と意思表明

清掃活動と並んで大きな課題は、どのように工場を復旧させるかであった。そのためには、被害の程度を把握して、設備復旧のための投資額を試算し、投資範囲についての妥当性を経営の視点から明らかにする必要がある。

初回の設備調査を行ったのは3月28日であった。地震によるビール貯蔵タンクの倒壊、工場周辺にパレットや製品が散乱した状況など、目に見える部分の被害は大きく、工場設備も甚大であるというのが一般的な意見であった。ところが、詳細に被害の状況を調査してみると、工場の海抜が高いことも幸いしたと思うが、醸造など重要な機器の一部は浸水を免れていた。しかしながら、受変電設備やパッケージング設備など、浸水した部分はオーバーホールが必要な状況であった。

設備調査後、短期間であったが復旧費用の概算を積算し、工場存続の判断を下したのは3月末であった。その後仙台で4月7日に記者会見を開いて社外に工場存続を表明できたのは大変良いタイミングであった。東北地方のお客様や行政関係の方々は、当工場は閉鎖するのではないかと心配されていたので、工場存続は好意的に受けとめていただいた。そして何より従業員にとっては、不安を払拭するメッセージであった。当時は多くの従業員が工場は閉鎖されると思っており、後日聞いた話だとマスコミ報道を見て工場が存続するのが現実になり大変安心したということであった。多分、工場存続が明確になるのが遅れていれば、従業員がここまで一心不乱に清掃活動を続けることは難しかったに違いない。

新生仙台工場に向けての課題

まずは工場の復旧が最優先課題であるが、ビール市場も経済環境や震災の影響を受け、大きく変化している。そのような状況で、復旧だけでなく復興を果たすことが重要な課題であると考えている。現在、「新生仙台工場」として課題にあげているものは以下である。

  1. 防災体制や危機管理の優れた工場
  2. 市場変化にタイムリーに対応できる生産性の高い工場
  3. 絆を大切にする地域から愛される工場

これらを具体化することで、東北地方でのビール造りを未来につないでいきたい。

東北のお客様への感謝をかたちに

震災から約4ヵ月後の7月9日に受電を開始してから、工場設備の復旧作業は急ピッチで進んでいるが、ビール工場は立ち上げるまでにいくつものステップを乗り越える必要がある。今後の予定は、9月26日の初仕込、11月上旬の初出荷である。

これまで、地域の皆様には大変ご心配をおかけし、また、多数の方々から暖かい励ましの言葉も頂戴した。ビールというお客様に近い商品を製造していることもあるだろうが、当工場の復旧が地域の復旧に少しでもお役にたてるよう、また当工場で製造したビールをいち早く東北のお客様にお届けできるよう、最大限の努力を重ねている。東北のお客様には感謝の気持ちで一杯である。引き続き、お客様のご理解・ご支援をいただきながら、操業再開に向けて、精一杯がんばっていきたい。

(9月26日記)

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