月刊・経済Trend 2011年12月号別冊 寄稿〜震災後、企業はどう取り組んだか

日産自動車

いわき工場長
小沢伸宏
(おざわ のぶひろ)

しょげていても仕方ない

3月11日午後2時46分。震度6強という激しい揺れがいわきを襲った。当時工場には304名の従業員が働いていたが、定期的に避難訓練を行っていたこともあり、初動で冷静に行動できたことで、幸いなことに全員が怪我なく構内の避難場所に避難することができた。

ただ、現場の被害は酷いものであった。天井からはダクトが落下し、エレベーターも破損、ライン上のエンジンも無造作に床に転がり、地面には大きな段差が生じていた。復旧には3か月はかかるだろうと直感的に感じた。

しかし、しょげていても仕方ない。ゼロスタートで工場を再建しようと、翌日から一刻も早い生産再開を目指して復旧作業をスタートした。


日産いわき工場 被災直後の生産ライン

日産いわき工場 エンジンが落下

屋内退避命令下での復興宣言「がんばっぺ!いわき」

復旧作業を進める上で、本社の災害対策本部は震災直後から衛星電話でホットラインを繋ぎ、いわき工場からの要望に完璧かつスピーディに支援を続けてくれた。いわき工場の現場の取り組みへの後方支援がすばらしく機能したことも、早期復旧において非常に大きな要因となった。

しかし、復旧作業が本格化しはじめた直後、原発事故に伴い、いわき市においても屋内退避命令が発令された。工場が大きな被害を被っているなか、現場から離れなければならないことは身を切られる思いであったが、いわき工場の災害対策本部メンバーはその間も社宅で復旧作業再開後の計画策定を続けた。「現場に一刻も早く戻り、早く工場を何とかしたい」と誰もが同じ気持ちだった。

その最中の3月21日、志賀COOといわき市長が面会し、「日産はいわき市のためにも工場を完全復旧させる」と復興宣言を行った。時を同じくして放射能レベルも下がったことで、各工場・関連会社・サプライヤーの方々の支援も再開し、一気に復旧モードに切り替わった。

私自身にもスイッチが入り、「がんばっぺ!いわき」を合言葉に、復旧への未曾有の挑戦がはじまった。従業員自らも被災者であるにもかかわらず、家族の安否を心配しながらも、献身的に復旧作業に取り組んでくれた。また、全国から工場の生産ラインをよく知るスペシャリスト数百名を指名して来てもらった。

度重なる余震により、何度となく作業の中断を余儀なくされたが、復旧に携わる従業員の努力により、3月下旬の時点において、4月18日には生産の一部を再開できるという自信があった。

しかし、生産の一部再開にあと1週間と迫った4月11日、再びいわき市を震度6弱の余震が襲った。被害は非常に大きく、この時はさすがに落胆したが、私が落ち込んでいては復旧に携わる従業員のモチベーションも低下してしまう。落ち込む従業員に対し「われわれが諦めると本当に復旧ができなくなってしまう。とにかく諦めずに振り出しからやろう」と言い続けた。

「いわきブランドの世界一のエンジン」を目指して

余震で復旧が振り出しに戻ってしまったが、何としてもいわきに復興の灯を掲げるためにも生産を再開したいという思いで、手組みで生産を再開することに決めた。そして4月19日、私たちが「震災復旧第1号」と呼ぶ手組みのエンジンが組みあがった。

その後も復旧作業を続け、5月9日には、念願の生産ラインでの生産も再開することができた。当初予想を1か月も短縮する2か月で全面復旧にこぎつけられたのは、全従業員の復旧にかける思いがひとつになったからだと思っている。

しかし、これがゴールではない。新しい大きな投資をするのではなく、日本でしかできないモノづくりの新技術を随所に織り込んだプレミアムなエンジンを作りあげ、震災の爪痕に苦しむ東北から、「いわきブランドの世界一のエンジン」をお客様に届けること、それが私たちの使命である。そのためにも、これからも震災を経て強まった絆を生かし、挑戦を続けていきたいと考えている。

(8月30日記)

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