月刊・経済Trend 2011年12月号別冊 寄稿〜震災後、企業はどう取り組んだか

日立製作所

執行役常務
石塚達郎
(いしづか たつろう)

101年目の試練


対策本部で挨拶する石塚事業所長

事務所で設備が倒壊している様子

日立地区は震度6強の揺れに襲われ、2分間に数回の大きな衝撃があった。勤務していた日立事業所も戦後経験したことのない被害を受けることになった。当時、私は事業所長で、震災直後は大変なことが起きたと感じた。製作中のお客様の製品が多数あり、就業人員も7,000名近い。電気・水道・ガスは止まり、電話も通じないなか、現場を預かる責任者として、なにがなんでも踏ん張る覚悟をしようと自らに言い聞かせた。

指定の避難場所に続々と人々が集まり、点呼を取る各職場の管理者たちからの報告では、幸い、事業所内の負傷者はいない。翌日から当分の間は、必要最小限の管理者が出勤して情報を共有し、具体的なアクションプランを策定することとし、ひとまず一般の従業員は帰宅・自宅待機として帰宅させた。

気がかりなのは東日本各地のお客様の作業現場で働いている出張者たちの安否だった。暗闇のなか懸命に携帯電話による確認作業を続け、出張者にも負傷者がいないことが確認できたのはその日の深夜のことであった。

手さぐりの状況のなかでの被災状況の確認

当日、私を本部長として、被災が軽微であった事業所食堂に「日立事業所災害対策統括本部」を設置し、限定された本部員で被災状況を確認することから始めた。翌朝、事業所内の自家発電設備を稼動させ、同時に発電設備を超特急で手配した。震災後2日間、電源喪失のために構内電話のバッテリーが切れ、事業所内は電話も使えなくなったためである。

翌日から数日間、建築事務所とともに事業所内の148棟を点検すると、立ち入れないほどの被害を受けたのは8棟であった。建屋の外壁が損傷し、事務所内部はキャビネットが転倒していた。戦前から使ってきた事業所本館など古い事務棟も損傷を受けていた。このままの状態では、とりもなおさず事業所の中枢機能が麻痺することを意味していた。

一方、生産建屋の窓ガラスは割れて、一部の地盤が歪んで水浸しになっていた。離れた港にある施設も設備や岸壁に損害を受けていた。しかし、各地から応援に駆け付けた機械メーカーの技術者と一緒に設備を点検すると、事業所内の建屋と天井クレーンの約9割、主要な工作機械は6割以上、産業用モーターなど汎用製品の製造ラインも、引き続き使用できそうだという明るい報告も入ってきた。

だが、現実には対策のためのやるべき項目を洗い出そうとしても、震災直後には電話もFAXも電子黒板も使えず、パソコンも使えない。資料の全てが手書きであった。構内電話が使えるようになるまで、事務連絡も広大な事業所内を部長が自転車で行ったり来たりして状況を伝達し合うという手探りの状況が続いた。

振り返れば、負傷者が皆無であったのも、事業所内の建築物は、従来から耐震性を精査し対策をとっていたからかもしれない。例えば本館の増設した最上階は危険区域として立ち入り禁止にしていた。普段から誰もが危険な建物や区域を予め理解していたこともあるだろう。

幸い、被災後10日以内に主な電気・ガス・水道など、ライフラインが復旧してきたため、出勤できる者は3月22日から通常通り出勤するように指示した。鉄道は不通であったが、この時点でも80%近くの人々が元気に出勤してきたのには驚いた。

電力増強の貢献に向け高い士気に溢れる事業所


全国から届く支援物資をリレーで倉庫に搬入

日立市と周辺地区は典型的な企業城下町である。関連会社をはじめ、協力会社や取引先なども含めると、数十社、数百人の人たちが応援に駆けつけてくれ、総勢数千名の体制で、3月22日以降、一斉に事業所内の製造設備や設計職場の業務再開に向けて取り組み始めた。

というのも、私たちは事業所の復旧・復興と同時に震災対策にも取り組まなければならない立場にあった。震災当日、原子力関連部門は本社と連携して「福島対策本部」を設置して、数百名体制で対策支援に取り組み始めていた。刻々と変化する状況に対応し、応援作業者だけでなく、様々な物資を調達し、現地へ送る作業も同時に進めていたからである。

ラインにあった製品は影響が軽微で、少し補修すれば問題の無い製品がほとんどだった。しかし、あれほどの勢いで立ち直ったのは、震災直後から電力不足は大きな社会問題となりつつあったため、電力増強に貢献しようという高い士気が事業所の内外に満ち溢れていたことが何よりも大きかったと思う。

4月3日には茨城県の施設をお借りして、日立港からガスタービンの船積みを再開した。私たちの所有する埠頭も8月には使用が再開された。出荷した製品は、何れも電力不足に対応するための発電所向けの機器である。

復興さらには振興に向け優れた技術の開発に全力を挙げる


ドイツの仲間から送られたメッセージ

昨年、当社は創業百周年を迎えたが、創業工場の日立事業所では、次の百年に踏み出す一年目で大きな試練に直面した。世界各地から激励のメッセージをいただくなど、確かに、私たちは被災者でもあったが、復興の担い手になるという気概が一人ひとりの胸にあったからこそ、早期の復旧・復興が成し遂げられた。私たちは「優れた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する」という企業理念を、今回を機に、図らずも改めて深く認識することにもなった。

幸い、3月29日には主要メディアを招き、日立事業所は復興宣言をすることができた。私は4月から本社に異動となったが、その後も世界中の報道機関が事業所の復興を温かく報じてくれた。従業員、地元自治体、メディア、株主など、私たちのステークホルダーの全てから背中を押していただいた。お世話になった皆様にこの場をお借りして心より感謝するとともに、今後も、未曾有の震災の復興からさらに振興に向け、全力を挙げて取り組んでいきたい。

(9月2日記)

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