第9回ミャンマー研究会(座長 春名和雄氏)/5月17日
ミャンマーの経済運営5カ年計画
―エーベル国家計画経済開発大臣と懇談
ミャンマーのSLORC政権は、市場経済化と対外開放を目指して各種の改革を進めてきており、これまでに一定の成果を上げている。経済自由化の恩恵を着実に広げながら、ミャンマー経済の本格的な離陸に向けて、同国政府は、2000年までの5カ年計画を策定し、経済の開発と政治の安定に努力している。最近のミャンマー政府の取り組みについて、エーベル国家計画経済開発大臣に聞いた。
エーベル国家計画経済開発大臣
- 経済の再建が最大の課題
SLORC(国家法秩序回復評議会)は、88年9月に政権についてから、平和で安定した国家の建設に努めてきた。外国資本の誘致、貿易の拡大、民間部門の育成など、市場経済化のための改革に積極的に取り組んできた。中央計画経済から市場経済への移行に伴い、法制度などの環境整備も併せて行なっている。88年11月には外国投資法を制定し、また89年3月の国有企業法によって、それまで公的部門に限られていた事業分野に民間企業の参入を促した。
88年当時、経済は混迷の度を深めており、政治も危機的な状況に直面していた。国家の緊急事態に対処するためSLORCは、
- 国家の安定、法秩序の維持、
- 民族の再統合、
- 新憲法の制定、
- 新憲法に基づく近代的な新国家の建設
の4つの政治目標を掲げた。また、経済目標としては、
- 経済活動の根幹である農業の振興、
- 市場経済体制の確立、
- 技術開発と外国資本の導入、
- 国家と各民族の協力による国民経済の形成
を目指した。さらに社会目標として、
- 全民族の志気の向上、
- 国民的名誉の回復と結束の強化、文化的な遺産や国民性の保持、
- 医療、福祉、教育の全般的な水準の向上
に取り組んだ。
89/90年度〜91/92年度の移行期における最大の課題は経済の立て直しであった。この間、法秩序の安定に伴い、経済活動は順調な回復をみせ、その後の持続的な安定成長の基礎を築くことになった。
92/93年度〜95/96年度の4カ年計画では、農業、牧畜、漁業に重点が置かれ、生産と輸出の拡大によって年平均5.1%の経済成長が目標にされた。この4カ年計画は予想以上の成果を上げ、実際の経済成長率は年平均8.2%を達成した。4カ年計画の期間中に国内投資は急増し、輸出も大幅に拡大した。また、経済活動の活性化には海外からの直接投資も大きく貢献した。96年3月末までに外国投資は、18カ国から累計172件、32億ドルに達している。その主な対象分野は、農業、漁業、牧畜、製造業、鉱業、石油、ガス、不動産、工業団地、観光開発などである。好調な経済環境のもとで国民の生活水準も大幅に改善している。
- 今後の経済運営5カ年計画
このような4カ年計画の成功を踏まえてミャンマー政府は、96/97年度〜2000/2001年度の5カ年計画を策定している。この計画では、
- 先の4つの経済目標の実現、
- 持続的な安定成長の実現、
- 社会経済インフラの整備、
- 経済各分野の調和のある発展
を目指している。新しい5カ年計画における重点分野は、
- 農業、
- 牧畜、漁業、
- 鉱業、石油、ガス、宝石、
- 運輸、エネルギー、
- 食品加工など高付加価値のアグリ・ビジネス、
- 財・サービスの輸出促進
などである。
5カ年計画の目標を実現するために具体的には、
- 財・サービスの輸出拡大、
- 均衡のとれた財政運営、通貨チャットの安定、
- 教育・福祉の向上と職業訓練・技術導入による人材育成、
- 地域間格差の是正、
- 高付加価値産業の促進、
- エネルギーの確保、
- 輸送、空港、港湾などのインフラ整備、
- 適正な財政金融政策による資源・資本の有効活用、
- 国内投資の促進、外資導入による技術移転、
- 環境保全対策の実施
などが盛り込まれている。
5カ年計画期間中の実質GDPは年平均6%の成長を見込んでいる。人口は95/96年度の4,474万人から2000/2001年度には4,901万人に増加する。人口増加率は1.8%、1人当たりGDPは年平均4.1%の成長が予想される。この間に必要とされる投資額は4,196億チャット(年平均839億チャット)であり、このうち42.7%が国営部門、0.5%が協同組合部門、56.8%が民間部門となる。輸出については、95/96年度の59億チャットから、2000/2001年度には158億チャットとなり、国営部門が45.0%、協同組合部門が1.3%、民間部門が53.7%を占めるだろう。金融、ホテル、観光産業などの拡大に伴い、サービス部門が経済全体に占める割合も95/96年度の16.7%から2000/2001年度には17.3%にまで増加するものとみられる。
これまでは概して国内資源に頼った経済発展であったが、今後は対外開放の進展によって海外との経済交流が一段と活発になり、ミャンマー経済は成長の速度をさらに増すことになるだろう。
- アウン・サン・スー・チー女史の動き
アウン・サン・スー・チー女史は、アウン・サン将軍の娘で、人生の大半を英国で過ごした。88年に母親の看病のために一時帰国したときに偶然、政変に遭遇した。当時、経済は停滞し、地下活動グループが政治の不安定化を図っていた。当時の政府は混乱を収拾できなかったため、止むを得ず国軍が政権に就き、統治することになった。これは国家としての結束を維持し、多民族間の和解を達成するために必要な措置であった。
当時、同女史はNLD(国民民主連盟)の指導者に担ぎ出され、秩序を乱す行動に出たため、軟禁状態に置かれた。同女史は95年7月10日に解放されたが、その後もNLDの国民会議からの脱退を働きかけた。国民会議には多くの民族の代表者が参加し、憲法の基本原則を作っている。NLDには、新憲法制定を待つだけの辛抱強さがなかったように見える。現在でも同女史は、政府への抵抗の姿勢を続けている。政府としては、憲法制定まで国民会議での議論を待つしかないと思っている。
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