経団連くりっぷ No.76 (1998年4月9日)

首都機能移転推進委員会新東京圏創造のためのワーキング・グループ/3月10日

歴史から見た東京論について
藤森東京大学教授から説明を聞く


新東京圏創造のためのワーキング・グループ(座長:國信重幸東京電力理事)では、第8回会合を開催し、東京大学の藤森照信教授から、明治の東京計画を中心にして歴史から見た東京論について説明を聞くとともに、来る4月を目途に取りまとめる予定の報告書の審議を行なった。以下は藤森教授の説明要旨である。

  1. 近代においては、都市に対して2つの欲望があった。1つは政治的欲望であり、もう1つは経済的欲望である。
    政治が求める都市には、巨大な広場やモニュメントが作られる。これは米国のワシントンや中国の北京を思い起こせばわかりやすい。
    経済が求める都市は、基本的に超高層都市であり、効率よく動きまれることが重要であり、不必要な広場やモニュメントを作ることを求めたりはしない。経済都市は通商の利便から海岸沿いにあり、ウォーターフロントの間際から超高層ビルが聳える。ニューヨークや上海はまさにその好例である。

  2. 東京においても過去に政治的欲望と経済的欲望の葛藤があり、その求める都市像をめぐって激しい議論が繰り広げられた。
    東京は何の構想もなく作られた訳ではない。結果として構想がないような都市づくりとなってしまっただけなのである。以下に述べるように、明治時代にはちゃんとした構想があった。

  3. 政治的欲望の計画の最たるものは外務大臣だった井上薫が中心となって、ドイツからベックマンら12人の専門家を招いて作らせた計画である。
    井上は目に見える形で、欧米に負けない都市づくりを本気で行なおうとした。
    伊藤博文の上申により、内閣直属の組織として臨時建設局が発足した。総裁には井上が外務大臣兼務のままに就任し、副総裁には警視総監の三島通庸が兼任し、井上−三島の下で計画づくりが進められた。
    結局この案は、その後の政治情勢や資金不足等の理由で計画倒れに終わるが、国会議事堂がこのベックマンの計画で現在の位置で確定し、また法務省などの霞ヶ関周辺の建設や帝国ホテルの建設など一部実現している。
    こうした派手な計画に対して、交通を重視する東京府知事芳川顕正を中心とする内務省のグループがあった。この人たちは、都市を論じ、像を描くということにはあまり意を注がず、ひたすら道路づくりに取り組んだ。これがその後の日本の都市計画の流れとなっていくのである。

  4. 経済的欲望の都市づくりは渋沢栄一に始まる。東京を商都にしようとする考えである。
    渋沢は兜町にビジネス街を作ろうとした。渋沢ら東京の経済界は隅田川の河口に国際港を作る計画を推進していたが、兜町は、この国際港と鉄道網の中心となる東京駅との中間に位置していた。
    商都づくりの要である築港計画が外国勢力下にある横浜経済界の反対で実現に至らなかったため、兜町の地の利も失われ、その後大企業のオフィスは次第に転出していった。今では証券取引所にビジネス街の名残を残すのみである。

  5. 兜町に代わるビジネス街として浮上したのが丸の内である。
    丸の内はもとは軍の用地であったが、国内情勢も落ちつきをとりもどしたことから、払い下げられることとなった。この用地の払い下げを受けたのは、当初価格の2倍を提示した三菱1社で、渋沢ら他の財閥は不動産開発のリスクを恐れて入札から降りてしまった。
    東京駅の周りにビルを一杯に建設する三菱の開発計画に対して、内務省は皇居と東京駅の間は50メートル道路にするよう計画変更を求めた。これにより丸の内というビジネス街に記念碑的な道路が通ることとなった。
    渋沢が日本国内の人流と物流のセンターにと考えた東京駅に関しても、内務省は「天皇の駅」とし、中央玄関は天皇専用で、その両脇に一般の人向けに出入り口を作った。
    東京は純粋な政治都市を建設する計画も潰れる一方で、純粋な経済都市も実現されず、政治都市と経済都市の折衷的な形で都市が形づくられていったのである。

  6. 霞ヶ関ビルは都市景観上で戦後の大きな意味を持っている。「国会議事堂」という、それまで東京で最も目立つ建物を凌ぐビルができたことは画期的だった。その後、超高層ビルが次々と出現し、東京の政治的シンボルは次第に弱まっている。
    これに対して、都庁ビルはノートルダム寺院とサンピエトロ寺院を模して作られたモニュメントである。お台場でも記念碑的な開発が進められようとしている。このような最近の動きは、都市イメージに関する政治的欲望からの1つの逆襲と言えなくもないと私は見ている。


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