経団連第55回評議員会/1月28日
来賓講演
わが国の科学技術振興のためには、部分的に施策を講じても、世界から尊敬される国にはなれない。21世紀、特に国際化時代の日本はどうあるべきか、という長い目で全体を整合的に考えていく必要がある。
20世紀における最大の問題は、
持続性とは「平衡」を意味する。経済面では、限定された物質と資源の効率的配分であり、環境面では、地球環境負荷の限界内堅持と自然生命・人の健康の維持、社会面では、機会均等、社会正義そして自由が確保されなければならない。この平衡の実現のためには、軍事・経済に象徴される「競争の時代」から「協調の時代」へパラダイムをシフトする必要がある。
一方、「ものづくり」は国づくりの基本である。わが国は、従来そして今日も「作る、造る」ことを得意とする産業が国を支えている。しかし、これは日本だけではない。韓国や中国などにも匠の技はある。今後は、「ものを創る」、すなわち「価値の創造」に向かわなければならない。ゼロからの価値の創造は、優れた研究に基づくものである。そのための人材の育成や環境整備が急務である。
科学技術振興のためには、産学連携は極めて大切である。規制改革や技術移転機関(TLO)が設立されるなど、あるべき方向に進んでいるかのように思う。しかし、産学連携を推進していく上で最も重要なのは、むしろ産業人による大学人の教育である。大学の教官は科学のことは分かっても、技術に関する知識は少なく、多くの分野で今は技術指導をできる立場にない。産学の協力は、情報の移行をはじめ双方向でなければならない。
さらに、共同研究プロジェクトの遂行は産学一体で行うべきである。異質なものの融合により大きな効果が出るからである。しかし、それでもお互いの利益が相反し、共同研究がうまくいかないことがある。その原因は、
本来、大学は個人の育成・研究の場である。自然科学分野では、国際水準にある立派な研究者はいる。しかし、産業技術は、複合的であり、いわばオーケストラによる演奏である。したがって、優れた演奏家(研究者)がいくらいても、それをまとめる指揮者がいなければ成立しない。わが国に欠如しているのはこの優れた指揮者の存在である。これは広い意味での教育の問題である。
リーダーとしての技術者には、
わが国の大学院教育の根本的な改革が必要である。少なくとも大学教育は国内水準、大学院教育は国際水準を満たすべきである。わが国の大学院博士課程の教育水準を西欧と比べると、大関と幕下ほどの格差がある。これを是正するためには、何よりも教官の質の向上が必要である。一方、大学院生も質がさまざまで教育し難い面がある。特に、養殖化され、自分の意志で生きていくという気持ちに欠けている。また、教官・院生ともに対話能力の格段の向上が必要である。
さらに、現在の論文指導を中心とする教育方法は、実験技術の向上を促すが、視野が狭く複眼的思考に欠ける。院生を教官の主要な労働力にしているのも問題である。改善が必要である。
今世紀、人間は有限の枠組みの中で自制心をもって生きていかなければならないことは冒頭に述べた。したがって、量的拡大から質的充実に向けて、すべての活動を循環モデルへ転換する必要がある。これまでは、一方的に消費や生産を行ってきたが、あらゆる面で循環を徹底しなければならない。
情報や人材にも同じ問題を抱えている。大学は、むやみに質の低い人材を量産し、大学や産業界に不活性な人材として蓄積させている。この現状を憂慮している。産業廃棄物であれば、循環できないものは焼却や埋め立てで対処できるが、人間はそうはいかない。今後、国際社会における競争は熾烈を極める。人材が無用の滞貨として蓄積しているようでは、わが国は鮫の泳ぐ国際社会という大海を生きていくことはできない。
この原因は、評価が適正に行われていないことにある。すなわち、絶対評価ではなく相対評価が横行していることにある。例えば、大学入試や大学教授の任用もすべて、相対評価である。本来、その大学に入学する、あるいは教授になるためには、その資質が求められる。しかし、実際には応募者の中から資格を欠いても相対的に優秀な順に選んでいるだけなのである。このような資質を欠いた人材の登用は、結果として無用の滞貨の蓄積を招く。わが国では、このような無責任な辻褄あわせが日常的に行われてきたのである。目利きの評価者の育成も大切な課題である。
IMD(国際経営開発研究所)の指標によれば、2000年の日本の国際競争力は47カ国中総合で17位である。一方、科学技術は、世界2位を維持している。この格差の原因を考えると、政府の経済政策の失敗や社会資本格差などにある。これでは、世界2位に輝く科学技術は生きない。
このような結果を見ると、やはり理科教育、科学教育は大事である。しかし、人が人生を幸せに生きるためにこそ理科・科学教育は必要とされるのである。
人は、自然に育まれて生活するのが基本であり、五感を磨いて自らの住む実世界を知らなければならない。これには理科が必要になる。同時に、人は文明社会で生活を営む人間である。五感で感知できることは限定されているので、知能で自らの住む自然環境を理解することが必要になる。これが自然科学である。また、人は創意工夫によって豊かな生活を送ることを望む。これには科学技術が必要になるのである。
科学技術には、原子力利用、遺伝子組替えなど、必ず光と影が伴う。科学技術をつくるのは専門家であるが、科学技術の採否や使用範囲を決定するのは国民である。徹底した情報開示が必要であり、国民の科学に対する無知は、技術のとり返しのつかない暴走を許し、技術開発コストの無意味な高騰を招く。その結果、国の衰退すらもたらすことになる。
理科・科学教育は単に専門家だけのものではない。万人に共通かつ必須の教養なのである。社会全体が健全な判断力を得るために、今後も継続的な努力を払っていかなければならない。しかし、残念なことに日本における国民科学知識は先進14カ国中12位である。
わが国では、科学者の地位はあまりにも低く、科学技術は経済の下僕の地位しか与えられていない。今後も適正な評価が与えられなければ、優秀な人材は海外に流出する上、人材そのものが集まらなくなる。
21世紀の日本は、科学と科学技術なくして成り立たないことを銘記するべきである。