共生する「共生論」 −まえがきに代えて

高丘季昭 経団連副会長・共生に関する委員会 委員長


今回、私の共生論という共通のテーマを設け、豊田会長、平岩前会長はじめ経団連の首脳の皆様に執筆をご依頼したところ、135通の原稿が寄せられた。お願いした者として、共生論に寄せられる皆様の関心の深さに改めて驚きに似た感動を禁じえない。ご多忙の中をご執筆いただいた皆さまに、厚く御礼を申しあげたい。

この小論文集は読んでいただければ分かっていただけるように、対象となったものは海外諸国との政治・経済関係、国内の産業・企業間の競争関係、企業内の新しい人事関係、自然の保護をはじめとする地球環境の問題、宗教・民族の対立をふくむ異文化間の問題など、きわめて多岐にわたっている。そして、述べられている視点、論点もきわめて多様である。

「共生」というテーマからして、このようにバラエティーに富む結果となったのは、むしろ当然というべきだろう。豊田会長のお許しをいただいて、寄稿をお願いしたときから、何か共通のコンセプトに集約できる性質のものではないと思っていたし、会員の皆様がどのように考えられ、どのように行動されておられるのかを会員同士で理解し合うことが望ましいと思っての企画であった。きら星の如き短編珠玉の小論文集を編集し、世に問うことができ、共生に関する委員長として、この上ない喜びである。そして、全編を一読して議論は多岐であるけれども、皆さまの「共生論」がひとつの流れとして見事に「共生」していることに、私は深い感銘を受けていることを付記させていただきたい。

ところで、私は共生ということを考えるとき、思い出すのはイギリスの哲学者ベーコンが言った「反対意見のない意見は存在しない」という言葉である。この言葉は世の中には千差万別の意見があり、それを尊重すべきであるという多元的価値観が根底にある。考えてみれば、家族、社会生活、企業、産業、国家、国際関係など、あらゆる分野の活動は一元的価値観によって営まれることはありえない。

共生という言葉は生物学用語であり、異種の動植物が同じ空間に棲みわけている状況を指すという。人類と自然の関係も同じであって、自然環境の破壊が人類の存続を危うくするものであれば、人類は自然破壊が進まないように共生を最重要なコンセプトとする必要があるだろう。そして、共生という考え方が意識と行動の規範であるとすれば、すぐれて、「心」の問題に帰属する。

共生という言葉の適当な外国語はないという。それでは、なぜ現代の日本にこの言葉が重視されるだろうか。共生を提唱されたのは経団連の平岩前会長であったのだが、その直接の動機は日本とアメリカ、EU諸国との経済摩擦の解消であった。しかし、バブル経済の崩壊といわれる現象が起こってから、共生論の対象は大きく拡がっている。たしかに、日本の現状は政治、経済、文化、社会の各方面にわたって危機的な状況にある。

3年間にわたって大型の景気対策を実施しているにもかかわらず、景気回復の兆しが見えない。無党派層の拡大、投票率の低下、本格的な政界再編成の遅れ、オウム真理教と称する殺人宗教法人に多くの若者たちが参加していた事実、これらの状況はそれぞれの問題の性質が異なっているけれども、日本全体の態勢が根本的改革を迫られていることを示している。経済の活性化のために構造改善が叫ばれているのも、このために他ならない。 だが、歴史的経過の中で、日本の基本的体質の何を改革しなければならないか、現在行われている議論は十分ではないのではなかろうか。私見によれば、日本が近代国家として誕生したのは明治維新以後であるが、現在までの130年間、日本のレジームは、実質的に絶対的権力による官支配体制にあることに起因している。大日本帝国憲法の時代がそうであっただけではなく、戦後の新憲法も国民主権が明言されているにも拘わらず、官支配体制のままであった。

戦後日本経済の復興は、生産設備に大きな打撃を受け、極端な資金不足、悪質インフレの中で、民間の力でなし遂げることは不可能であった。その結果として官主導の政策運営体制が保持され、自民党の一党体制、政・官・財の癒着体制が長く継続するところとなった。いま基本問題となっている諸規制がその結果として生じたのである。そして、日本国民の大多数は豊かな生活を目指して、経済成長至上主義を支持した。

この状況は一元的価値観を基礎としている。そして今日の危機は一元的価値観に根ざしているように思える。西欧諸国と異なり、ルネッサンス、フランス革命の経験をもたない日本が、真に民主導型国家になるためには、多元的価値観をもつ共生の概念を基礎として改革を進めるべきある。

(たかおか すえあき)


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