月刊 Keidanren 1999年 9月号 巻頭言

歴史に学ぼう

那須議長 那須 翔
(なす しょう)

経団連評議員会議長
東京電力相談役

今年の先進国サミットの開催地となったため、ケルンの町並みの風景が、新聞紙上やテレビ画面で、たびたび私たちの眼前にあらわれた。そしてそこでは、当然のことながら、有名な大聖堂の姿が写し出された。ご存じのようにあの建物は、13世紀頃に着工され、今の形に完成したのは19世紀と、実に600年もの間の建築技術の累積である。その姿をみて、私ども経済に携わりつつその生涯を過ごしてきた人間にとって、経済の歴史における大勢の人々の黙々たる営為の累積が、どのように後世の価値として伝えられていくのか、よくよく考えさせられた。

明るさの方向性が活字上にもようやく見ることができるようになった今日この頃ではあるが、現在の日本経済の大不況の原因は、いまだに「バブル崩壊」という人が多い。「崩壊」が不幸の原因と決めつけているこの言い方に対して、「悪かったのはバブル経済そのものであった」との認識が日本人全体の中でいまだに稀薄なことを、私は残念なことと思っている。つまり歴史的事実の評価が違うと主張したいのである。バブルの時代には、投機第一主義、競争の名を借りた拝金主義、敗者・弱者への配慮の不足等々、いわば豊かさの中の精神的荒廃が、各種の現象における経済的数値の拡大とともに、明らかに大きくなっていたのである。そしてその崩壊の恐れの予断の声は、バブルそのものへの批判とともに、当時の日本ではきわめて小さかった。

私たちは、20世紀の終わりにあたって、以上のようなことについてもう一度謙虚に考えるべきではなかろうか。今は、私どもの先輩を含めて、日本の歴史を動かしてきたこの100年の日本社会全体の安全ブレーキの働き方を考えてみるべきチャンスだと思う。その鍵は、私は3年前にこのページで提唱した「民間人の公(おおやけ)の精神の再復興」にあるということをもう一度申しあげたい。つまり、自分中心でなく、まず相手を、そして周囲のことをもっとよく考えて行動しようということである。

今はもうこの世にいない有名な大横綱が若い力士の動作・作法について、「相手の目を見ないから、ぶざまな立合しかできず、待ったを繰り返すことになる」と言ったことがあった。双方で合わせて立ち合うその「呼吸」が、競争の舞台で大観衆を魅了する名勝負の鍵であり、それこそが「公(おおやけ)」といえるものの好例と私は考える。


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