第5回東富士夏季フォーラム<第1日>/第2セッション
司馬遼太郎の『坂の上の雲』が完成してから34年になるが、今でも多くの人に読まれている。その理由は、彼の作品が人々に勇気を与えるからであろう。また、穏やかな語り口や風貌とは裏腹に、彼が戦闘的な作家であったことが彼の読者層を支えている。
今から40年前の時代背景や社会の様相を考えると、『坂の上の雲』のような作品が新聞に連載されたのは驚きである。当時の青年たちは、「明日にでも革命が起こらなければ」と情緒的に考えていた中、司馬遼太郎は、日露戦争を堂々と「国家防衛戦争」であったと書き、国軍について書いた作品を連載するなど、当時のタブーに果敢に挑んだ。
文学は、内容よりもそれがいつ書かれたかということが重要である。司馬遼太郎は『坂の上の雲』連載中の1969年、「軽い国家」という文章の中で、「日本史上、これほど軽い国家を持ったのは今が初めてだし、(中略)国家があまりに軽いので学生たちはやるせないのかもしれない」と書き、この時代の青少年の心情を、軽い国家に対する不安からくるものと分析した。『坂の上の雲』を書き続ける戦闘性を持ちながら、穏やかな言葉の積み重ね、雑談・余談で青少年の心情を表現しようとしていたことは、注目に値する。
司馬遼太郎は『坂の上の雲』の冒頭、「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」と述べ、ナショナリズムに凝り固まることなく、世界の中の日本という観点からこの作品を書いている。「まことに小さな国」とは、「まことに小さな国たち」の集まりとも言い換えられ、江戸期の三百諸侯時代が育んだもの、土地土地により異なる気質のことを指している。元和焉武以来、武家の権力は徐々に失われ、寛文期には完全に失われた。経済が発展し、商人が権力を持っていった。非常に多様で独特であった国は、やむを得ず近代に乗り換えざるを得なくなったが、それを決意するのにためらいはなかった。そうした複雑な思いが、『坂の上の雲』の最初の1行に込められている。
1970年の暮れ、司馬遼太郎はもう1つ、週刊誌に連載『街道をゆく』を執筆した。彼はこの連載で、谷1つ隔てるだけで気質が異なるこの国の多様性を知り、それが日本型近代の根本にあることを自ら確認したかった。アイデンティティーという言葉を彼は「お里」と訳した。江戸期に育まれた多様な気質と経済活動が、日本型近代の根本的な力であること、多様な気質が集まることで、西洋型近代に立ち向かう力を得たということを示したかったのだろう。
もう1つ、彼がこだわったのは、日本が辺境にあるという認識だった。大陸から離れ、大陸の影響を直接受けないことからくる「有利さ」が日本型近代の背景にあり、だからこそ若い文明が起こり、世界を席巻するような影響力を持つ文化が生まれたと考えていた。
司馬遼太郎の作品がわれわれを勇気づけるのは、そこに描かれた日本的近代の明るさにある。彼は文学の中に軍事・政治を統合し、それを成功させたのである。