シミュレーションは、様々な現象を模擬的に実現することであるが、産業競争力の観点からは、理工学上などの問題に対してコンピュータ上で模擬的な実験を行い、その結果を研究開発や設計に活用していくことが極めて重要である。
構造解析、流体解析などのシミュレーション技術は、20世紀後半において技術革新の原動力となってきた。米国や欧州は、10年以上前から、産業競争力の強化と国家安全保障の観点からシミュレーションがきわめて重要であると認識し、国家戦略として、シミュレーション技術の研究開発に継続的に取り組んでいる。この結果、米国はシミュレーション技術全般で世界をリードしつつあり、EUもソフトウェアに関しては米国に匹敵する水準に達している。
日本経団連では、これまで、提言「ナノテクが創る新産業−n-Plan2002」などにおいて、シミュレーションの重要性を指摘してきたところであるが、シミュレーションは、分野横断的な共通基盤技術であり、かつわが国産業がバイオテクノロジーやナノテクノロジーといった先端技術分野で、国際競争力を確保していくためには不可欠な技術であることから、シミュレーションソフトウェア開発・活用への道筋や、今後重点的に取り組むべき分野等について、産業技術委員会 重点化戦略部会 バイオ・ナノシミュレーションWGで検討を行ってきた。
以下は、その成果を提言としてとりまとめたものである。この提言が、わが国におけるシミュレーションの戦略的推進にあたって、参考となることを期待したい。
シミュレーションは、現在、様々な産業分野で広く活用されており、製品の開発・設計に不可欠となっている。
シミュレーションが開発・設計に活用されている分野は、例えば、自動車、家電製品、磁気ストレージ、半導体、レンズ、エンジン・タービン、金型、建設など幅広く、その目的も、強度設計(構造解析)、放熱設計(熱解析、流体解析)、電気機器設計(電磁界解析)、回路設計(電流・電圧特性解析)、製造過程設計(プロセス・シミュレーション)など多岐にわたっている。
将来の経済社会に大きな影響を与えると期待されているバイオテクノロジーやナノテクノロジーなどの分野でも、新たにシミュレーションが活用され、実験を行うべき対象の大幅な絞り込みや、実験が困難な部分の代替など、実験の効率化・高度化が図られ始めている例も少なくない。
例えば、バイオテクノロジー分野では、大量の化合物の群の中から、医薬品の候補化合物をスクリーニングするにあたって、優先順位付けを行うために、ミクロなシミュレーションが活用されている。
ナノテクノロジー分野では、高い電気伝導性など新しい機能を持つ材料が、シミュレーションを用いて開発され、製品に活かされたり、シミュレーションを活用して開発された新しい触媒が、実際の化学プロセスに活用されている。さらに、ナノデバイス分野では、ミクロなシミュレーションが、超低誘電率材料や超高誘電率材料の開発に用いられるとともに、新しいデバイスの開発にも活かされている。
バイオテクノロジー、ナノテクノロジーにおいては、原子レベルでのメカニズム(物理化学現象)の解明が重要であるが、理論と実験のみによる把握は困難である。シミュレーションの活用によって、研究開発や設計の大幅な効率化・高度化が可能となる。
現在のシミュレーションのレベルは、バイオテクノロジーやナノテクノロジー分野において実際の事業に役立てるには必ずしも十分ではないが、今後、高速アルゴリズムの開発やシミュレーション理論の進展により、シミュレーションの有用性が大きく高まることは確実と思われる。また、コンピュータの能力がさらに向上すれば、シミュレーションの適用分野は大幅に拡大すると期待される。
例えば、バイオテクノロジー分野では、創薬におけるレセプタ―リガンドの相互作用を用いたライブラリーからの化合物のスクリーニングや、候補化合物が代謝を受ける酵素の同定など、薬物動態や毒性の予測へのシミュレーションの活用が大いに期待される。これらは、食品、化学分野などにおける酵素反応シミュレーションについても同様である。
また、たんぱく質のシグナル伝達のシミュレーションも、将来、医薬分野への活用が期待され、循環器系のシミュレーションなども、医療の質の大幅向上をもたらすと思われる。
ナノテクノロジー分野では、ナノカーボンや高強度の鉄鋼などの新しい材料の開発、廃棄物が少なく省エネルギーが達成できる高選択性触媒などの開発、化学プロセス設計において、今後とも、シミュレーションによる大幅な効率化・高度化が期待できる。高効率太陽電池に必要な色素増感剤、自動車用燃料電池に不可欠な長寿命分離膜材料の開発、ストレージや光デバイスなど新しいデバイスの開発などにおいてもシミュレーションの果たす役割は大きい。
バイオテクノロジーやナノテクノロジーなどの先端技術分野において、重要なのは研究開発のスピードである。世界に先駆けて性能や使いやすさの面で優れたソフトウェアを開発し、活用すれば、いち早く研究開発や設計に要する時間を大幅に短縮することができ、人件費を含む研究開発費の削減にもつながる。
さらには、シミュレーションソフトウェアを自ら改善することで、世界市場で競争力のある製品の開発も可能となる。
わが国が、先端技術分野の産業競争力を高め、優位性を確保するためには、シミュレーションは不可欠な技術である。
現在、わが国の産業界で使われているシミュレーションソフトウェアはほとんどが外国製である。欧米では、米国IT R&Dプログラムに代表されるように、実証ソフトウェアの開発を含めて、国家の戦略の下、シミュレーションの振興に取り組んでいる。外国の有力なソフトウェアの大半は、国家プロジェクトや大学での実証レベルの研究開発をベースにベンチャー企業などが事業化したものである。
一方、わが国では、大学などにおける先端的なシミュレーションの基礎研究は欧米と互角のレベルにあるが、基礎研究レベルにとどまり、産業活用につながる実証的な取り組みは殆どなされていない。
バイオ、ナノ分野のシミュレーションの開発、活用はまだ始まったばかりであり、ソフトウェアの実証研究を積極的に進めるとともに、これらのソフトウェアを産業で実際に活用できるようにすることで、産業競争力の強化を目指すべきである。
シミュレーションソフトウェアについて、基礎研究から実用化にいたる継ぎ目のない開発戦略が必要である。
競争力の強化に資するシミュレーションに重点投資すべきである。特に、バイオテクノロジー、ナノテクノロジー分野が重要である。
ユーザとソフトウェア開発者の連携、データベースやコンピュータ環境の整備、人材育成など、シミュレーション活用にあたっての基盤整備が必要である。
民間の役割
政府への期待
シミュレーションは産業の共通基盤技術として広く利用され、20世紀後半の技術革新を支えてきた。今後のわが国の中核産業として期待されているバイオテクノロジーやナノテクノロジーの分野においては、実験で観測することが困難な原子、分子の挙動を把握する必要があり、シミュレーションは従来にもまして重要となる。今後、わが国がこれらの分野で、世界をリードする付加価値の高い新製品を多数生み出していくためには、シミュレーションの研究開発および産業への応用が不可欠であり、今後求められるコンピュータ環境も、現在のテラFLOPS級からペタFLOPS級に拡大すると見込まれる。シミュレーションを活用した技術革新は、様々な分野の技術の融合のもとに、大学等の研究機関と産業界が一体となって実現するものであり、国としての戦略的取り組みが不可欠である。この提言が、シミュレーションに関するわが国の戦略的取り組みの参考となれば幸いである。