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いま、社会の一員として

─ 地域社会との共生をめざす企業と市民団体 ─

長野県
(No.48 1999 August)

 中部地方の内陸部、中央高地に位置し3000メートル級の日本アルプスが連なる信州。昨年開催されたオリンピック、パラリンピックの記憶も新しい長野県が今回の取材先です。南北230キロにわたる県域は北海道、岩手、福島に継ぐ大きさ。その中で、諏訪湖を臨む地に生まれ育ったセイコーエプソンと、長野市善光寺の近くに本社を構える北野建設を訪ねました。また市民団体にかえ、伊那谷全域で取り組まれている環境保全活動をご紹介します。
 セイコーエプソンの創業は1942年です。第二次大戦中、疎開先の一つとして諏訪市に移り地場産業と合体。腕時計を中心とする精密機器製造業として成長し、その後、社名変更や合併を経て1985年にセイコーエプソン(株)設立となりました。1968年に発売した世界初のミニプリンタ“EP-101”のヒットから同社の多角化は始り、EPをベースに多くの価値あるSON(子供)たちを世に創出していこうという意味をこめて付けられた社名がEPSONです。世界各地に研究開発やサービスの拠点を持ち、広く世界を舞台に夫々の地域に密着した企業活動を行っています。
 北野建設は戦後間もない1946年に創業されたオーナー企業です。本社を長野市に設立し、東京本社を銀座に構え、“建築は造形なり”の理念のもとに事業を推進しています。寺社の保存修復や施工、音楽堂や美術館、図書館などの文化・公共施設、共同住宅、ホテル・リゾートなど、伝統に培われた技能と先端技術を駆使して芸術性の高い建造物を建設。より豊かな人間生活の空間の創造に挑戦しています。また、早い時期から海外建設に取り組み実績は30カ国に及んでいます。
 地域に根ざした企業の地域貢献活動を、セイコーエプソンの高木豊総務課長と鹿沼克行広報部課長に、北野建設は千葉弘子スキー部長兼北野文芸座支配人に伺いました。また伊那テクノバレー支部が事務局をつとめる環境保全活動、「天竜川水系環境ピクニック」と「水系健康診断」も併わせてご紹介します。


「地域と一緒に」の姿勢で取り組まれる
 セイコーエプソンの活動

地域の一員としての役割がまず第一に

 諏訪地方は、かつて製糸業が発達し日本の近代化推進に重要な役割を果たしたところ。近隣地方から優秀な労働力が集まっていました。戦争の影響でこれらの産業が衰退していくなか、何かこれに代わる産業を興したい。地元企業にその強い熱意がありました。セイコーエプソンの前身となる大和工業は、諏訪に疎開した第二精工舎諏訪工場と隣同士の地場産業。山崎代表は「諏訪を東洋のスイスにしたい」という強い情熱の持ち主でした。「戦後も是非この地に残り新しい産業の創出を」と願う山崎代表の情熱をうけて、第二精工舎は諏訪に残り大和工業と合体。セイコーエプソンの母体となりました。そして、諏訪地方は精密機器や電気機器に工業の中心が移っていきました。
 現在、諏訪には本社と高木事業所、長野県下には18の事業所があります。そこで働く人々は殆どが地元居住者。従業員はセイコーエプソンの社員であると同時に、夫々の地域社会の一員です。「会社以前に地域との繋がりがまず第一にあります」と、高木総務課長から説明がありました。

「地域と一緒に」という姿勢で、ごく自然に

 オーナー経営者同士の強い意志で諏訪に根を下ろした企業の取り組みには、「地域と一緒に」という姿勢が貫かれていました。それは、「社会貢献」というような大上段に構えたものではなく、自然体で地域社会に入っていくもの。「地域とともに」はごく当たりまえ、わざわざ経営理念に掲げるまでもありませんでした。「“雇用の創出”という、地域で最も求められる事柄を原点に、地域と一緒に歩いてきました」と高木さん。
 近年の急激なコンピュータ化の流れを受けて、情報系学生の育成にと情報系短期大学、エスイー学園を本社敷地に隣接して設立したのもその一つ。諏訪には理工系の大学がありませんでした。地域全体の若者たちに情報系教育の場を創設し役立てたいと考えたもので、今年が設立10周年。エプソンからは社員3名が大学職員として派遣され、非常勤講師として数名が教鞭をとっています。2学年制男女共学、120名の学生は卒業後夫々の道を選び就職していきます。
 同社の「社会貢献」に関する窓口は本社総務部と広報部。内容によって調整されますが、一般寄付に絡むものは総務課、諏訪湖花火大会やマラソン大会などのイベント協賛は広報部の担当です。総務課長の高木さんは諏訪の出身。昨年まで諏訪地域の勤労青年福祉協議会会長を務めました。現在も幹事であり、加えて消防や警察、労働基準協会、安全衛生など10余の会合の役員です。社員であると同時に、地域社会からの要請による繋がりも強いのです。会合には地元企業や行政、市民の参加もあり社会ニーズの収集に役立ちます。諏訪という限られた地域社会の中では、どの会合も顔見知りが多く横展開の連携もできやすいとのことでした。

「Co-Existence/自然と友に」を環境理念に

 超微細・精密加工技術の開発に欠かせないもの。それは澄んだ水ときれいな空気であり、その環境を守り続ける企業姿勢です。創業以来、自然との共生を企業風土としたエプソンは1998年を「第二の環境元年」と定めています。社長直轄下の地球環境室を事務局として、6つの専門委員会を設けました。企業活動として地球環境保全への本格的な取り組みを始めたのです。
 総務・広報が担当する環境保全活動には、諏訪湖の水質改善や環境整備、リサイクルなどに取り組む市民団体「諏訪環境まちづくり懇談会」との交流や支援もあります。地球環境室による専門家の技術支援、環境分析など科学的バックアップ、講演会などへの講師派遣も行ってます。
 諏訪湖畔の清掃は長年継続実施している地域環境保全活動。6月、8月、10月の年3回、市の協力を得て各種団体と一緒に行います。6月、10月はゴミの数より人の数が多く、8月15日の諏訪湖花火大会翌日にはこれが逆転。大勢の観光客が残したゴミの山を地元企業50〜60社や市民団体も参加して片付けます。諏訪湖の水質改善や清掃活動など、自然環境保全は地域社会の一員として、企業も行政も市民も協力して続けている活動です。
 「地域貢献へのポリシーは、景気の善し悪しに左右されず、決まったことには継続支援する。カッコ良さより地道に続けること」。高木さんの言葉に力が入りました。

スポーツ・文化支援、地域医療そして障害者雇用

 昨年行われたオリンピックとパラリンピック。公式スポンサーのセイコーグループの一社として、資金・技術・人(ボランティア)的側面からの支援を行いました。パラリンピックのアイススレッジホッケーチームには同社社員が選手として出場。会社では応援の社員を募りバスを仕立てて声援しました。
 諏訪湖一周マラソン大会も同社が支援するイベント。会社の募集に応え、社員も給水ボランティアとして毎年10名が参加しています。諏訪湖を中心とするこれらの地域行事には会社の呼びかけとは別に、各地域の要請による地域活動として参加する社員も多いとのことでした。
 文化活動では「サイトウ・キネン・オーケストラ」ヘの支援が挙げられます。1989年から91年までは欧州公演の単独スポンサーを、92年からはサイトウキネン財団運営による松本市での開催となり、以降現在まで財団への支援を通じてバックアップしています。
 地域貢献として昨年行った寄付に日本赤十字社諏訪病院の移転建設費支援があります。建物設備の老朽化による建替えで、市民生活に欠かせない医療支援として実施。病院からの要請をうけ2名の社員が医療システムの技術サポート要員として派遣され、人的技術的支援も行われています。
 また同社では、障害者についても“雇用の創出”が実施されていました。各事業所での雇用のほか、セイコーエプソングループの障害者雇用特例子会社「エプソンミズベ(株)」を諏訪湖畔に設立。現在は車いすの方々に加え、視覚・聴覚障害、知的障害を含む60余名が働いています。電子基板の検査や修理、防塵服のクリーニング、また社内印刷物やデータ入力業務なども行います。「社員であると共に地域社会の一員」。「地域とともに」の姿勢は、自然に受継がれセイコーエプソンの社風になっていました。

「人間尊重」と「文化尊重」をポリシーに
“企業文化の創造”をめざす北野建設の活動

「人間尊重」をポリシーとして

 北野建設の創業は終戦まもない1946年8月。海軍飛行予備生徒(特攻隊)であった現会長北野次登氏が故郷長野に帰還した翌年でした。若干22歳の次登氏が単身上京。新たな人生を切り開くべく、一面の焼け野原と瓦礫の山がまだ残る首都東京に支店を開設し、創業者としての第一歩を踏みだしました。本社を長野に置き、父北野吉登氏を社長に、自らは常務取締役東京支店長に就任。北野建設は、戦後日本の復興と発展への道程と軌道を一にしながら、終始「人間尊重」の経営姿勢を貫き、幾多の苦難を乗り越え今日に至っています。
 頑固で非妥協しかも義理固くて志操堅固な信州人気質。文武に優れ進取の気性に富む松代藩士の血。縁ある人々を尊重し和を大切にする気風。北野建設の社風や地域社会への貢献は、創業者に脈々とながれるこのバックボーンなしには語れないでしょう。

日本バレエ界への支援、そして美術館の設立

 戦後、日本のバレエ界に一時期を画した「チャイコフスキー記念・東京バレエ学校」は北野建設の全面的な援助によって1960年に開校された学校です。本格的なバレエ芸術を日本にと訴えた、2人の長野出身者の情熱を受けて、準備段階から支援を続けました。創業者自らが陣頭指揮に立つ、一私企業による援助の「お金持ちの道楽」とは全く異質のもの。「人間尊重」は即ち「文化尊重」とする北野建設の仕事をつらぬくポリシーなのでした。
 長野市の静かな郊外にある北野美術館も文化振興に寄与すべく設立された施設です。吉登氏と次登氏が「絵を見ることは精神の鍛練になる」と、親子2代、真剣勝負の目で集めたコレクションを土台に、日本の近代絵画史上貴重で珍しい作品も所蔵されています。個人美術館の少なかった1967年当時、財団法人設立には多大な労力を要しました。また彫刻は、長野本社西館の建設を機に北野建設彫刻ギャラリーを開設して広く一般に無料開放されています。ルノアール、ロダン、グレコなど泰西の名作のほか、長野県出身の作家をはじめとする邦人作家の秀作を常設展示。「多くの地域の人々に鑑賞していただき、地域社会の美術・文化の向上にお役に立ちたい」。芸術文化への貢献は創業以来続く北野建設の理念です。

「スキー部」は雪国信州の特性を生かす社会貢献

 北野建設本社のある長野市周辺は、志賀・白馬・野沢温泉など全国有数のスキー場が数多くあるところ。多くのスキー選手が輩出され、全国レベル、国際級のスキー競技会も開催されます。スキー文化に寄与することは、この地域特性を生かした社会貢献活動に繋がる。長野県スキー連盟からの要請もあり、札幌オリンピック前年の1971年、選手5名と監督1名で「スキー部」が創設されました。今年で28年になります。
 北野建設スキー部の活動と北野文芸座の地域文化振興については、スキー部長であり北野文芸座支配人を務める千葉弘子さんにお話を伺いました。千葉さんはスキー部創設時から在籍、1972年の札幌オリンピックには日本代表選手としてクロスカントリーに出場され、コーチ、監督、部長を歴任。スキー部の歴史と共に歩んだ実力者です。

少数精鋭、恵まれた環境で活躍する選手たち

 選手の採用はスカウト方式。全員が北野建設社員として「スキー部」というセクションに所属します。試行錯誤を重ねながら、「スキーをしていることが業務」と認められる環境が整備されました。「会社の理解があって、企業チームとしては一番恵まれた環境でしょう」と千葉さん。スキー以外の仕事はクロスカントリーやジャンプ台に関するノウハウを提供し営業活動をサポートするなど。少数精鋭主義の部員はノルディックを中心に複合の荻原健司・次晴兄弟やボブスレー選手などとスタッフを入れ現在9名。千葉さんの役割は若いスキー選手たちに、地域に生きる「人間としての側面」を大切に教えていくこと。県や市町村からの依頼に応じて、選手たちは街頭募金や各種行事のボランティアをオフシーズンには積極的に行います。「廃部になる企業も多い厳しい経済環境下で、人数も減らさず継続させていただけることは大変有難い」と千葉さん。今年高校卒業した上村愛子さんを「これから伸びる大切な時期。どこかで面倒を見なければ」と採用枠ゼロの見直しを会長に申し出、承認を得ました。「選手たちを自社の広告塔とせず、一番大切な時期をしっかり羽ばたけるように育てること」が北野建設の一貫した方針です。
 昨年の長野まで、歴代のオリンピックには毎回複数名が日本代表選手として参加。アルベールビルでは複合団体金メダル獲得。長野ではメダルを逸しましたが5選手が活躍しました。千葉さんはオリンピック村・パラリンピック村とも副村長として活躍。「パラリンピックの人達とも大変親しくなり、素晴らしい経験をさせていただいた」と、障害ある選手たちの大らかさ和やかさに感激されていました。
 スキー部に所属した選手は延べ60余名。歴代の選手達は家業を継ぎロッジやスポーツ店の経営など、自由に自分の道を歩み年一回の総会で再会します。

地域文化の昂揚と活性化を担う「北野文芸座」

 北野文芸座は地域の活性化と文化・芸術の振興に貢献すべく建設された歌舞伎座風の建物。1994年、善光寺表参道に完成した施設は席数385と極力しぼりこみ、大劇場で味わえない「役者の息吹を肌で感じられる」大きさとしつらえです。柿落としには計画段階から助言をされた、人間国宝の歌舞伎俳優、故尾上梅幸丈も出演。伝統的な芝居小屋を彷彿とさせ、近代設備をそなえた北野文芸座が「地域はもとより、全国の幅広い人々に本物の伝統芸能に接していただく場に」と話されました。北野文芸座では歌舞伎・文楽・能・狂言など、日本の伝統舞台芸術を中心に公演が行われています。
 大人ばかりでなく、地域の子どもたちにも本物に触れる機会を、そして日本文化に対する興味や見る目を養ってもらいたい。昨年からは「夏休み親子寄席」の開催もはじめました。
 「月2回の公演を目標に、より良い舞台芸術を廉価で提供して、地域社会の活性化に寄与したい」。就任2年目の千葉支配人の熱い思いが伝わりました。

「取り戻そう泳げる天竜川!」、「築こう循環型社会!」を標語に。
天竜川水系の環境保全活動。

伊那テクノバレー「リサイクルシステム研究会」

 天竜川は長野県の4つの水系、信濃川・姫川水系、木曽川・天竜川水系のひとつ。諏訪湖の「釜口水門」に始まり、中央アルプスと南アルプスにはさまれた伊那谷を南下。奥三河・北遠の山岳地帯を通り遠州灘に至る、延べ213kmの急流土砂河川です。
 今回は、天竜川を子どもたちの泳げる川にと始まった「天竜川水系環境ピクニック」と「諏訪湖・天竜川水系健康診断」の取り組みをご紹介します。取材先は伊那テクノバレー支部の千野邦興事務局長です。伊那テクノバレーは長野県テクノハイランド開発機構の1支部。「美しい自然と共生する21世紀都市の形成」を基本テーマに伊那地区の地域産業の振興を図っています。環境ピクニックは同支部に発足した地域企業による「リサイクルシステム研究会」が主催する行事。当初は産業(企業)の発展と自然環境の共生を図る目的で「産業廃棄物の適性処理を行い、循環型産業社会を目指そう」と、会員企業を中心に研究会を開いていました。メンバー企業が協力しあい古紙を回収、合同で再生紙を作りリサイクルを図るなど活発な活動を実践してきました。

大きく広がる「天竜川水系環境ピクニック」

 環境問題がクローズアップされた時流を捉え、「企業などが個々に実施しているゴミ拾い活動を連携して実施し、地域全体の環境向上活動へと発展させたい」。研究会が陣頭指揮をとったのが、この天竜川水系環境ピクニックです。主催は「リサイクルシステム研究会」の企業チーム、事務局を伊那テクノバレーが担当しています。行事は毎年一回。辰野町から飯田市に至る3市6町6村を4ブロックに分け、企業などの事業所や団体、市民そして行政が協力して行う河川沿岸の大規模な清掃活動なのです。
 1994年に実施された第1回目は25事業所、704人の参加でしたが、6回目の今年5月の行事には、66事業所2,800名を超す大勢の参加がありました。女性や子どもなど家族単位や、県外からの参加もあり、参加者の幅も層も年を追って広がっています。集めたゴミは全体で不燃物502袋、可燃物245袋。参加事業所毎にまとめられ、それぞれのゴミ処理場に運ばれました。残念ながらゴミの量はまだ減っていないとのこと。「まず参加者から天竜川の現状を再認識して、モラルの向上に努め、循環型社会を実現していきたい」と活動を重ねています。

24時間体制で行う「諏訪湖・天竜川水系健康診断」

 環境ピクニックの後を受けて始まったのが「諏訪湖・天竜川水系健康診断」。諏訪湖環境まちづくり懇談会の協力を得て、リサイクルシステム研究会と共催で行われるもの。諏訪湖から遠州灘に至る天竜川213km全域、22の支流河川もふくめて同日同時刻、24時間にわたる水質調査です。天竜川は、産業の発展に伴い治水・水利優先の中で巨大な水路と化し、生態系の変化によって自然が持つ回復力が低下。浄化力の弱い川になっています。そのうえ産業排水、生活排水、農薬など周辺の環境汚染も重なり水質は悪化の一途をたどる状況です。
 このため河川流域の企業や市民が連携して水質測定を実施し、水質の実体を把握。今後の水質向上や環境保護への提言や活動に生かそうとするものです。3回目の昨年10月には33企業団体、140名が参加。場所によってはテントを張り、本流10ヶ所、支流17ヶ所で24時間にわたる調査を行いました。
 泳げる天竜川をめざしたこれらの活動が人々の意識やライフスタイルを変え、豊かな美しい自然が守られるよう願う取材でした。

(取材・文責 青木孝子)


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