[ 日本経団連 | コメント/スピーチ ]

「日本経済再生への道」

東京サンケイビルグランドオープン・サンケイビル創立50周年記念
経済セミナーにおける奥田会長講演

2002年10月3日(木)

【はじめに】

日本経団連会長の奥田でございます。本日は、新装なった東京サンケイビルのご披露の席で、講演をさせていただく機会を与えていただき、たいへん名誉なことであると存じております。
フジ・サンケイ・グループ、とりわけ産経新聞は、明確な報道と、常に揺ぎない主張を持っているメディアと評価されております。まさに「正論」の発信基地としてふさわしい東京サンケイビルの落成にあたり、経済界を代表して、また、読者のひとりとして、まずはお祝いを申し上げます。
本日は、せっかくの機会でありますので、日本経団連会長として、また経済財政諮問会議の民間議員のひとりとして取り組んでおります経済構造改革を中心に、日本が直面する課題に対する考えを披露させていただき、ご批判を仰ぎたいと存じます。

【1.現状の認識】

はじめに、改革を語る前提として、内外の経済、政治、社会のありさまをどのように見ているか、私なりの現状認識について申し上げます。
第一に、国内経済であります。しばしば、バブル崩壊からの「失われた10年」と言われます。
たしかに、株価や地価の下落からはじまり、経済全体が停滞して長期のデフレ局面に陥ったということでは、バブル崩壊後10年あまりであります。しかし、私は、「失われた」ということでは、バブルの始まりからの15年をもって数えたいと考えます。
何が「失われた」のか。それは、実態経済への尊重、もっと平たく言えば価値あるモノやサービスを作り、それを消費者に届け、暮らしや社会を豊かにしていくという、経済活動の基本が見失われたのではないか、ということであります。
バブルとは、ひとことで言えば、実態の価値を伴わない投機であります。1980年代末の日本は、繁栄の意味を取り違え、暮らしや社会の本当の豊かさとは関係のない、数字に踊らされていた状態であったと思います。
その、実態のない数字が崩れたときに、実態さえもが失われてしまったのが、バブル崩壊以後の日本経済の姿であります。
例えば、株価の下落に対して、これまでに様々な対策が講じられてきました。郵貯・簡保資金によるPKOにはじまり、持合解消の受け皿としての信託の活用や保有機構の創設、税制のたび重なる改正などの措置がとられてきましたが、いずれも対症療法に過ぎず、長期的な効果がなかったことは、まさに株価が示すところであります。
少し冷静に考えれば、株価対策と思っていたものが、株価対策にはならなかったことは、明白であります。
株価は、企業の価値を示すものにほかならず、企業が価値を高めていかなければ、要は会社が儲かるようにならなければ、株価だけを押し上げることができないことは当然であります。
企業が価値を高めるには、優れた製品やサービスを生み出し、それをユーザーや消費者に受け入れてもらわなければなりません。
日本経済の再建には、小手先の対応ではなく、民間企業の活力を高めていくことが不可欠であります。そのためには、企業が再びその本来の役割を取り戻し、「経国済民」の本道をいくしかありません。その本道は、モノづくり重視からはじまる実態経済の尊重にしかないと考えます。

日本の現状の憂うべき点は、経済の停滞が社会の沈滞につながりかねないことであります。
戦後の再出発から57年、すでに日本は、壮年から初老に達しつつあるのかもしれません。ただし、老成と老衰とはまったく別であります。日本の社会が、もし老衰への道を歩み始めているとしたら、これは大きな問題であります。
一つの社会が活力に溢れているかどうかは、若者のありさまによく現れます。日本では、昨今、若い世代に卒業後も定職につかないフリーターが目立っております。もちろん、活力と意欲を持った若者に、やりがいのある仕事を十分に提供できていないことが一番大きな原因でありますが、職があったとしても、それを定職とすることを嫌う風潮が社会現象となっていることは、大いに危惧しなければなりません。
産経新聞の出身である司馬遼太郎の代表作に「坂の上の雲」がございます。日露戦争を舞台にした小説ですが、本当の主人公は明治国家そのものであるように思えます。明治国家の青春群像の象徴としての「坂の上の雲」とは、仰ぎ見る欧米列強だったかもしれませんし、自らの「目指すべき行方」であったと思います。
現代の若者は、その「目指すべき行方」はおろか、社会の中での自分の位置付けさえも見出せないでいるのかもしれません。
こうした若い世代の混迷は、やはり大人の責任だと思います。子供は親の背を見て育ちます。大人が社会人としての意義と自覚を忘れ、ただリストラの波に翻弄されているばかりでは、立派な青少年が育つはずはありません。
かといって、若者にまったく希望が持てないかといえば、そうでもありません。今の若者には、われわれの世代とは異質かもしれませんが、たしかなエネルギーがあります。例えば、阪神淡路大震災のときの若い人たちのボランティア活動を思い出していただきたいと思います。エネルギーの発露の方向さえ、しっかりすれば、経済再生、日本再生につながる力はあると感じます。
「今どきの若い者」というフレーズは、三千年前の古代遺跡の碑文にもあるそうですが、若者を見て嘆いているだけでは仕方ないのです。中高年のわれわれが、もう一度それぞれの「坂の上の雲」を持たなければならないのであります。

次に触れておきたいのは、日本の政治であります。経済の低迷と時を同じくして、90年代の政治は大きく混迷いたしました。政党の変遷を見るだけで、国政がいかに不安定なものであったかが分かります。政治が混迷したことで、政策対応が先送りになってきたことが、経済の傷口をひろげたことも否めません。
その政治の混迷が、まさに危機に陥ろうとしたときに、小泉総理が「改革」を旗印に登場いたしました。自民党のみならず、日本にとってギリギリの選択ともいうべき事態であったと思います。
小泉総理は、歴代の総理・総裁の中で、初めてと言ってもよいと思いますが、国民的な支持を政権基盤とする方であります。その政治手法は、従来型の利害調整とはかけ離れたものであり、明確なリーダーシップを発揮しようとするものであります。
しかし、リーダーシップが明確であっても、政策運営が、必ずしもすべての面にわたって明確になるわけではありません。とりわけ経済政策については、総理が明確な方向性を打ち出す知恵を、誰が提供するかが課題になります。その役割の一端を担っているのが、まさに経済財政諮問会議であり、経済界やマスコミからの政策提言であると考えます。
今週月曜日(9月30日)の内閣改造において、総理は、人事によって一つの方向性を示そうとされたと理解しております。不良債権処理に取り組む政府の姿勢は、竹中大臣が経済財政担当と金融担当を兼務されることによって、明確になりました。
総理が会見で述べておられたように、今後は政府と日銀が一体となって、日本経済の病根である不良債権問題に取り組むことになります。私は、総理のこの決断を、強く支持したいと思います。

さて、現状認識で、簡単にでも触れておかねばならないのが世界情勢であります。
ソ連の崩壊後、世界はグローバルな市場経済という秩序に覆われるかと思われた時期がありましたが、実際はそうなっておりません。
経済では、EUのほかに、北米、ASEAN諸国が地域経済統合の道を進んでおりますが、ブロック化が行き過ぎれば、日本が依って立つべき自由貿易の基盤さえ損なわれるおそれがあります。
また、その間隙を縫ってと言いますか、中国は、2050年代の超大国を目指して、着々と力を蓄えております。
政治では、アメリカが軍事的にも唯一の超大国となりましたが、冷戦の終焉は民族紛争の多発をもたらし、卑劣なテロを横行させているのが現実であります。
もちろん、世界の安定のためにも、昨年の9.11テロは決して許してはならないものであり、テロ組織は撲滅しなければなりません。
ただ、テロを軍事力だけで押さえ込むことができるとは思えません。世界には多様な思想、信条、価値観、習慣をもった民族がモザイク模様のように広がっており、必ずしも西欧流の考え方が支持されるわけではないからであります。お互いの価値観を認め合う共感と信頼を醸成しなければなりません。
いずれにせよ、経済的にも政治的にも、新たな国際秩序は、目下、模索中といってよいと思います。日本が「世界」から取り残されないためには、まず、近隣諸国との友好関係を深め、自らの身の置き所を確保した上で、とくに国際経済秩序の形成に積極的な役割を果たすべきと考えます。

【2.構造改革の必要性−うちなる「聖域」の打破を】

以上の現状認識を前提として、経済構造改革について、私の考えを述べてまいりたいと存じます。
経済界が「改革」に深くコミットした始まりは、1981年からの第2次臨時行政調査会、すなわち土光臨調であります。その後、財政改革、税制改革、規制改革、政治改革、司法制度改革など様々な改革が言われ、また行われてきました。
これらの改革の多くは、ひとことで言えば「小さな政府」を目指して行われたものであります。政府の役割を最小限に止め、とくに事前の規制や関与をなくし、民間の自己責任による自由な活動を広げようとするものでありました。
その結果、20年を経て、制度や仕組みの面では確かに大きく変わりました。しかし、期待されたように民間の活力が高まり、それが経済にプラスとなって現われたとは言い難く、制度改革は進んだが、経済は取り残されている状態にあります。
もちろん、これらの改革は景気対策ではなく、景気の即効薬でもありませんでした。問題は、それでは、この間に、なぜバブルを起こし、それがはじけ、デフレ経済に至ったかであります。
私は、それは今までの「改革」が、経済や社会の体質改善に及ぶものではなかったからだと考えます。いわば、お役所の世界の中での、お役所のための改革でしかなく、本当に官の役割を必要最小限に止め、民間企業や国民全体の活力を活かしていくものではなかったからだと思うのであります。
例えば、財政改革にしても歳出構造そのものに踏み込まず、単に経費削減策の積み重ねをしてきただけではなかったか。国と地方の関係についても、地方を聖域視し、地方交付税や補助金の大胆な見直しに踏み切れなかったのではないのか、という思いを禁じえないのであります。
課題の解決に立ちはだかるのが、既得権益を持つ抵抗勢力であることは明白であります。しかし、抵抗勢力とは、何も特定の業界や族議員だけではありません。
実は国民誰しもが、ある意味、抵抗勢力となりえます。そうである限り、改革の内容は利害調整に止まらざるを得ず、経済や社会のあり方を抜本的に変えるものとはなり得ないのであります。
しかし、もうこれ以上、改革を先送りすることはできません。
少子・高齢化は止まることなく加速化しており、2006年には総人口はピークを打ち、2025年には今よりも600万人近く減る上に、65歳以上の高齢者が28.7%を占めると予想されています。人口が減っていく中で、経済全体の成長を図ることが難しいことは明らかであります。
また、足元の経済状況を見ても、株価はもう後がないところまで下がっております。IMFやG7においても、経済運営のもたつきや不良債権処理の先送りについて、露骨な不快感が示されるに至っております。
本当に、残された時間はわずかしかありません。経済構造改革の断行を、単なるスローガンではなく、現実に効果の出る形で行わなければならないところに来ていると考えます。

【3.小泉政権と経済財政諮問会議の役割】

−ビジョンの提示と国民の説得−

それでは、経済構造改革をどのように進めるべきでありましょうか。それには、やはり小泉総理みずからが、改革に向けた明確で具体的な方針と、それを断固実行する意志を示されることが第一だと思います。
総理が主導した改革は、今までにも例がなかったわけではありません。最近でも、橋本内閣の6大改革や、小渕総理が産業競争力会議を舞台に進めた様々な制度改革があります。
たとえば、小渕総理は、経済回復を最優先として、大蔵省の抵抗を抑えて、法人税率の引き下げや所得税の減税を行いました。
しかし、今までの改革は、役所の権限と既得権を維持する範囲に矮小化されておりました。本当の構造改革は、民間と地方、ひいては国民全体の活力を活かすものでなくてはなりません。それは、一時的にではありますが、国民に「痛み」に耐えることを求めることでもあります。こうした改革は、やはり国民的な支持基盤をもつ総理でなければ、なし得ないことであります。
その総理みずからのイニシアティブによる改革を具現化し、いわば構造改革の司令塔となるべき役割を与えられたのが、経済財政諮問会議であります。
財政審議会や政府税制調査会、社会保障審議会などをはじめとする既存の審議会は、関係者の利害調整に終始する傾向があります。総理みずからが議長を務める経済財政諮問会議は、こうした審議会では到底、進めることができない抜本改革の推進役となることこそが役割なのであります。
そして、その改革の具体案を、できるだけ分かり易く提示することが、私を含めた民間有識者議員の任務であると考えます。
経済構造改革とは、わが国の経済そのもののあり方を変えていくものにほかなりません。経済財政諮問会議では、6月にいわゆる「骨太の基本方針第2弾」として「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」を策定し、その中で「経済活性化戦略」として6つの戦略と、30のアクションプログラムを提示しております。一方、総合規制改革会議は、毎年のように数百項目の規制改革を求め、世界と遜色のない、競争的な市場を、日本に実現しようとしております。
これが、すべて実行されるならば、日本経済は変化に対応する力を取り戻し、国際競争力をも回復する、と言いたいところではありますが、実は、これらをすべて断行しても、日本経済が再生するとはいえません。
なぜならば、本当に今、避けては通れない3つの重要な改革について、その具体的な方向が定まっていないからであります。
3つの重要な改革とは、財政改革、社会保障制度改革、そして税制改革であり、これら3つの改革を一体的に推進してこそ、経済構造改革が、はじめて完成すると言わなければなりません。そして、残念ながら、これら3つの大事な改革について、経済財政諮問会議の手は、十分には届いていないと言わざるを得ない現実があります。
関係省庁のコントロール下にあると言っても過言ではない、財政審議会、社会保障審議会、政府税調という、既存の強力な審議会の存在が、経済財政諮問会議の議論の進展を妨げているという面は否めないように思います。
これは、税制改革をめぐる年初来の議論を見ていただければ、十分にうなずいていただけるものと思います。
しかし、それよりも大事な問題は、財政改革、社会保障改革、税制改革の3つの改革は、国民に少なからぬ「痛み」を与えるものになるということであります。
例えば、社会保障制度を持続可能なものにしようとすれば、年金、医療等の給付をしかるべき水準に抑制した上で、さらに、社会保険料を引き上げるか、税で負担するかは別にして、いずれにしても国民負担を高めていくことが避けて通れません。
税制改革は、デフレ経済からの脱却を図るためにも、まずは大規模な減税を先行させることが必要であり、今は先行減税だけが注目されていますが、一方で、国家財政が巨額の債務を負っているという事実があります。国民が広く負担を分ち合うためには、個人所得税の諸控除の縮減はもとより、いずれ近い将来には、消費税率の大幅な引き上げが必要であることは明らかであります。
財政改革は、政府のムダを省き、行政サービスを効率化して歳出を削減するという点では、影響を受けるのは官僚だけであり、直接国民には関係ないようにも受取られております。
しかし、これもよく考えれば、今まで国や自治体が負担していた行政サービスを、国民みずからの負担で賄うのか、止めてしまうのかという話しであります。
行政サービスを継続するには相応の負担が必要であり、その負担は今の制度のままでは大幅に上昇することになるということであります。改革を先送りしていたのでは、どうにもならないところにまで来ているということを、国民のすべてが理解する必要があると思うのであります。
そこで、大事になるのは、改革の必要性と、こうした改革の痛みを経た後にどうなるのかということを、国民に分かり易く説明することであります。痛みを受け入れた上に、将来、何のトクにもならないのでは、改革についていくことはできません。
構造改革を断行したならば、日本経済や、国民ひとりひとりの生活がどう変わるのかを、総合的、具体的に、分かり易く示し、国民を説得することしか方策はありません。
いたずらにバラ色のビジョンを示せと言っているのではありません。お年寄には、慎ましやかでも安心した老後が送れること、若者には、チャレンジの機会とみずからの努力による成果が享受できるようになること、そして今、働いている方々には、雇用の機会と社会の中における確固たる位置付けが与えられることを、きちんと説明できればよいのだと思います。
その意味で、経済財政諮問会議が今年の1月に提示した、「構造改革と経済財政の中期展望」は、重要な試みではあります。しかし、これも2006年度までをターゲットとする「一里塚」に過ぎません。また、そのまま多くの国民に理解していただくには、抽象的で、難し過ぎるものであります。
構造改革後の21世紀の日本の姿を、国民に向けてもっと具体的な形で示し、改革への賛同を得る努力に努めなければなりません。それには産経新聞をはじめとする良識あるマスコミの力もお借りしなければならないものと考えます。

【4.新しい「経済界」の理念】

−国民経済の体現者としての経済界−

それでは、われわれ経済界は何をすべきか。
第1には、まさに改革の痛みを率先して引き受けることであります。
例えば、デフレ経済からの脱却のためには、不良債権の処理が、まず必要であることは、つとに明らかであったはずです。
にもかかわらず、実態は、不良債権処理は賽の河原に石を積むごとく、遅々として進んでおりません。
不良債権の処理は、貸し手である金融機関にとっても、借り手である企業にとっても、存続か退場かの境目になることでありますが、だからこそ、もう先延ばしすることはできないと思います。政府もまた、さらなる公的資金の活用などを通じて、不良債権処理の後押しをする覚悟を示すことが必要であります。
また、併せて、大胆な産業再編を進め、企業を適切な単位に、少なくとも国際競争の場に出ていけるものにまで括り直す必要があります。そのためにも、市場における淘汰を妨げるような仕組みは、断じて取るべきではありません。むしろ、政府が行うべきは、セ−フティーネットの拡充でありましょう。

経済界の第2の役割は、経済構造改革の様々な分野について、国民経済の体現者としての資格で、具体的な提言を行い、その実行を迫ることであると考えます。その点では、経団連・日経連以来のわれわれの取組みを、より徹底させることであります。
経済界みずからが、既得権益に拘泥するようでは論外であり、あくまでも改革者としての立場で、改革者たる小泉総理を支えていくことが、今果たすべき役割であると考えます。
中身が経済界のあり方に移りましたので、少しお時間をいただいて、この話しを続けたいと思います。経団連、日経連が統合して日本経済団体連合会となり、漸く4か月余りを経ましたが、会長としての4か月間の感想めいたことも含めて、経済界の役割について考えておりますところを述べてみたいと思います。
そもそも、個々の企業や業界を超えた経済界に存在意義があるとすれば、それは「国民経済の体現者」としての発言と行動にあると考えます。何も、われわれの主張がすべて正しいとは申しませんが、少なくとも、企業経営の立場から政策運営について発言することは必要なことであります。
なぜならば、国や地方の行政に「経営」の発想を活かすことが非常に重要だからであります。効率的な行政を心がけるのは当然として、人からカネを預かり、人を雇い、国際的な競争を行いながら利益をあげて、株主や従業員、さらには社会に還元していく役割は、民間企業でなければ果たせないものであります。
納税者の代表として政府に注文をつけることは、経済界のみならず、連合をはじめとする労働組合や消費者団体、市民団体も、日常、行っていることでありますが、経営の視点からの政策提言は、とくに経済構造改革を進めていく上では不可欠なことと考えます。

このような経済界の主張が、国民の共感をよび、実際の政策に反映されていくためには、少なくとも経済界が信頼するに足る存在であることが必要最小限の条件であります。
その意味で、昨今の相次ぐ企業不祥事は、当該企業のみならず、経済界の存在意義をも否定されかねないものであります。日本経団連の内に向けての最優先の取組みは、このような不祥事の防止であります。
かつても企業不祥事が頻発したときがあり、経団連では「企業行動憲章」を制定して、その排除に努めました。しかし、かつての不祥事は、総会屋をはじめとする外部の不正勢力との関係で生じたものであるのに比べ、昨今の不祥事は、いわば企業に内在する病根から生じたものであり、一層、深刻であります。
このような不祥事の排除は、法律をその通り守れという当たり前のことでしかありません。
それができるかできないかは、実は制度以前の問題であります。
経営トップが志と責任を自覚し、常日頃から現地現物を実践する。そして、それを社内に徹底できれば、不祥事は防ぎ得るはずです。
それに、もうひとつ重要なことがあるとすれば、そのような不祥事の兆候に対して、誰が警鐘を鳴らすかであります。
社内で行われていることは、社内にいる者にしか分からないのであり、社員全員が「ホイッスル・ブロウワー」としての役割を果たすことが必要であります。
制度面でやるべきことがあるとすれば、社内での警報装置を徹底することであり、警鐘をならす者を積極的に評価する仕組みであります。
日本経団連は目下、企業行動憲章の改訂に取り組んでおりますが、経営トップのイニシアティブ強化、不祥事防止のための社内体制の強化、それでも不祥事が起きた場合での断固とした対応の3つを大きな柱にしたいと考えております。

さて、経済界のあり方について、多くの方々がご関心のあるのは政治との関係であろうかと思いますので、ひとこと付け加えさせていただきます。
かつて経団連は与党に対する政治献金の斡旋を大きな役割としておりました。1994年に斡旋を止めたときは、これで経団連の発言は大きく低下するとも言われたものであります。
しかし、その後も経団連は様々な分野で提言を行っておりますが、その実現度合いは決して低下していないと自負しております。
むしろ、税制改正や、議員立法を通じた商法改正への協力を通じて、重要な政策提言の実現度はそれまでよりも高まっているのではないかと思います。
これは、政策形成の過程での官の優位が崩れ、政治家みずからが政策を立案、実行するという場面が多くなる中で、経団連が着実な政策提言と政策立案のサポートを果たしてきたからだと思います。それでは、これからの政治と企業の関わりを具体的にどうするのかと聞かれますと、実は私の考えも十分にまとまってはおりません。
ひとつには、日本経団連は目下、企業人政治フォーラムという形で、政治との新たな関係を築こうとしているところであります。また、前々回の参議院選挙から比例区に経済界代表候補を送ってきたことは、直接の政治参加という試みとして取り組んだものであります。
これらの成果を見極めた上で、じっくりと考えていきたいところでありますが、もし、政治が機能不全に陥ったときに、誰がそれを正すことができるのか。また、そうならないようにするには何が必要なのか、経済界と政治の関係を、癒着でも追従でもないものにしていくためにどうすべきかを、私自身の宿題として考えて参りたいと存じます。

【5.改革の時代のマスコミの役割】

−改革を進めるために−

いただいたお時間が残り少なくなってまいりましたので、最後に、マスコミの果たすべき役割について、ひとこと触れて、終わりにしたいと思います。
マスメディアは「社会の木鐸」と言われております。その意味するところは、世の中のできごとについて国民に知らせ、目を覚まさせることであると思いますが、改革の時代にあっては、もう一歩突っ込んだ役割を期待したいと考えます。
それは、「知り、考え、行動する国民をつくる」ということであります。
構造改革には痛みが伴いますが、その構造改革を断行するには、今をおいてほかにはありません。小泉総理や、われわれ経済界がいくら努力するとしても、国民の支持が必要であります。国民を改革に向けて立ち上がらせるには、何百万という国民に一度に伝えることができるマスコミの力が欠かせません。
今は、テレビやインターネットなど様々なメディアがありますが、国民に冷静な判断を求めるためには、何と言っても毎日届けられるクオリティの高い「ペーパー」の役割が大事であります。
新しいビルの落成を期に、産経新聞が、今こそ「正論」を高く掲げて邁進することを願い、私の講演を終わらせていただきます。

ご静聴、ありがとうございました。

以 上

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