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日本経済の復権

読売国際経済懇話会における奥田会長講演
2002年12月18日(水)

はじめに

ただいまご紹介いただきました、日本経団連の奥田でございます。本日、読売国際経済懇話会にお招きいただきまして、誠に光栄に存じております。
本日、私がお話し申し上げますテーマは「日本経済の復権」であります。最近は「再生」という言葉が流行りのようでありますが、もう少し積極的に、今日は「復権」ということで日本の将来を考えてみたいと思います。
もちろん、再生を復権と言い換えてはみても、取るべき方策が大きく変わるわけではありません。何よりも、バブルの渦中で、そしてその後の経済低迷の中で、日本人の多くが失ってしまったものを取り戻すことであります。それは、明治の青春群像が目指した「坂の上の雲」とは言わないまでも、戦後の荒廃から立ち上がり、高度経済成長の時代に日本に満ち溢れていた熱気、パッションを取り戻すことであると思います。
失われた熱気を取り戻し、日本経済が再び輝きを取り戻すために、何をしなければならないか。今日は、それを全体として4つのパートに分けてお話しいたしたいと思います。
第1が、この国の「今」をどう捉えるべきかということ。第2が、新たな成長軌道に回帰するために必要なこと。第3が、この国をどのような「かたち」に変えるべきかということ。そして最後に、グローバル化が進む国際社会の中で、アジアとともに生きる方策をお話ししてみたいと思います。

日本の「今」

さて、まずは日本の「今」をどう捉えるかであります。景気が悪いのは事実であります。しかし、多くの海外から日本を訪れたビジネスマンは、銀座の人波やブランド・ショップに並ぶ人の列を見て、海外で聞いてきた日本のイメージと、自分の見ている現実とのギャップに戸惑いを覚えるのも、これまた事実であります。
2ヶ月ほど前に、あるアメリカのシンクタンクの方に、この状況を言い表す言葉を聞きましたところ、「ハイレベル・スタグネーション」という表現を用いて、日本の現状を表したのであります。
ハイレベル・スタグネーション。まさに言葉通りであり、不況下ではあっても、物質的には欧米諸国に追いつき追い越した日本がそこにある。宮沢元総理が指摘されておられましたように、日本は、1980年代前半に、欧米へのキャッチアップを終えていたのであります。
しかし当時は、まだまだそうした認識は共有されておらず、むしろプラザ合意後の円高の恐怖におびえていた状態であったと思います。この為替の魔術で、目標としてきた欧米は、まるで逃げ水のように遠ざかっていくかのように感じられておりました。逆にいえば、目標が目標としてあり続けたかのように錯覚していたと言ってもよいと思います。
現実は、皆様ご承知の通りであります。バブル経済で土地は急騰に次ぐ急騰を続け、株価は踊り、日本が世界を制するかのような感覚を抱くようにすらなった時代が到来したわけであります。
この時期、キャッチアップを終えた日本は、本当であれば海図なき航海をどう乗り切るのか、新しい国の目標をどう定めるのかを考えなければならない重要な時期でありました。しかし、バブルの幻想は、目標設定の機能を麻痺させ、根拠のない繁栄を謳歌することになってしまいました。まさに、将来への布石のない繁栄を続けていたわけであります。
こういった布石を欠いた例の一つとして、赤字財政を放置したことが挙げられます。80年代の前半、私どもは土光敏夫という稀代のカリスマを得て、行政改革に邁進いたしました。「増税なき財政再建」のスローガンのもとに、「メザシの土光」を旗印に行革に取り組んだ結果、国鉄の民営化をはじめとする数々の輝かしい成果を挙げました。
しかし、プラザ合意への恐怖とバブルの発生が、この成果を台無しにしていきます。円高への恐怖が、行革で身動きのとれなかった財政に代わって、金融政策の出動を促し、結果としてバブルを発生させてしまいました。
景気回復の判断を誤って、手綱を締めるタイミングを失した金融政策は問題ではありますが、私がここで問題提起したいのは、その中で起こった事実であります。すなわち、国家財政にとっては、むしろバブルは神風だったはずだということであります。
景気が回復し、バブルが発生して税収が大幅に伸びても、赤字財政は改善いたしませんでした。理由は単純であります。税収増があっても、それを借金の返済に回さなかったからであります。私どもは、この事実を重く受け止めなければなりません。
行政機構が自己増殖の遺伝子を持ち、肥大化を続ける傾向にあることは、永遠の真理のようであります。それを制御することができるのは、本来は選挙で選ばれた国会議員のはずでありますが、この国の場合には、悲しいかなそうした制御機能は働かなかったようであります。
90年代に入って、バブルが崩壊しても、こうした制御不能の状態が問題の解決を遅らせてきたことは否めません。右肩上がり経済に慣れきった感覚がバブルで増幅され、低成長、あるいはマイナス成長の連続という現実を受け入れることを、拒否してきたようにも感じられます。
そして、バブルの発生・崩壊という金融政策の失敗が、80年代前半に気付いたはずの財政破綻の現状を忘れさせ、再び景気回復に向けて財政を使うということになりました。
90年代に増えた財政赤字は、まさに天文学的であります。もちろん、日本経済の危機的な状況からすれば、それもまた一つの選択肢であったと思いますし、産業界もそれを求めたわけですが、あまりに多額の借金が将来への不安感を増幅したことも忘れてはなりません。これが少子化・高齢化の進行とあいまって、社会保障制度の持続可能性に対する疑問を拡大し、それが消費にも影響するという結果を招いている面は否定できないのであります。
われわれは80年代前半からの20年を、新しい目標を見つけられないまま迷走してきたのかもしれません。円高への恐怖にとらわれ、バブルの発生を許し、将来への展望なく刹那的な消費に踊る。バブル崩壊時には、右肩上がりの経験則から抜け出せず、外科手術を拒否して膿を体内に溜めてしまう。進む少子化には有効な手立ても打てず、高齢化の進行には弥縫策を繰り返す。まさにビジョンなき迷走が繰り返された20年であったと思われます。
しかし、悲観的にばかりなっていても仕方ありません。また、その必要もないと思います。日本は、未だにアジアの70%の経済規模を誇り、英独仏3カ国を足した規模の経済大国であります。技術開発においても、製造基盤においても、世界のフロントランナーであることに変わりません。
もう一度、追いつき追い越せに代わる新しい目標を設定し、新たな成長に回帰することさえできれば、この国の活力は再び輝きを取り戻すことは間違いありません。

新たな成長に必要な要素

それでは、新たな成長に必要な要素は何でありましょうか。
第一は、多様な価値観を認め合うということであります。欧米へのキャッチアップで、私どもは世界でも稀に見るほどの、物質的に豊かな社会を手に入れました。バブル期はもちろん、その後の経済低迷の中でも、決してこの豊かさを手放すことなく今日に至っています。
それでもなお、一人ひとりの個人が満たされず、渇きにも似た感覚を覚え、将来に対する不安を抱いているのはなぜなのか。人間の欲望には限りがないと言ってしまえばそれまででありますが、今後は高度経済成長期のような高い所得の伸びは期待できませんし、また、そうする必要もないと思います。
幸いにして、バブルの唯一の効用といってもよいかもしれませんが、キャッチアップ過程で進んだ画一化が、他人と違うこと、違うもの、自分だけのものを求める傾向に変化してきたように思われます。
個人が個人として、自分の価値観にあったモノやサービスを求める。他人と違うモノやサービスに満足を覚える。そして、他人のそうした価値観を尊重する。しかし、真似はしない。そうした多様な価値観をもった世代が現在、形成されてきていることは、日本の将来にとってうれしい兆候だろうと思います。
ひとつだけ、さらに涵養しなければならないとすれば、戦後経済社会の形成過程で強調されすぎた「私」というものを、少し「公」に振り向けるということであります。こう申し上げても、別に「修身」の課程を復活しろなどと主張しているわけではありません。自分だけよければ、という考え方を、自分を主張するにも全体に迷惑をかけることはやめよう、できれば社会全体の役に立つことを考えようということであります。
こうした多様性のある個人と「公」の精神を尊重することが、この国の新しい成長のためには、まず必要だと考えるのであります。

第二に申し上げたいのは、さまざまな改革を進める過程で、もう一度、市場の機能というものを見直してみようということであります。
たしかに、日本は明治期において、官主導の国家建設に成功いたしました。その成功モデルは戦後復興にも活かされ、高度経済成長を通じて世界最高水準の経済国家を建設いたしました。それ自体は賞賛に値するものであり、日本型の経済成長モデルとして世界に誇りうるものであります。
しかし、このモデルには致命的な欠点があります。市場よりも人知のほうが優れていることを前提としている点であります。もちろん、市場には失敗があります。それを人知で補うことも必要であります。ただし、市場の失敗よりも政府の失敗のほうが多いことも、われわれは忘れてはなりません。
日本は、旧ソ連の書記長から、「世界でもっとも成功した社会主義国家」と賞賛されるほどの、政府主導型国家であります。これが世界を席捲する、グローバル化と市場化という、変化の激しい時代にそぐわないものになっていることは現在、明白であります。
改革の過程において、市場機能を基本とすることが、今日ほど求められている時代はありません。それは、政府が本来やるべきことに注力するためにも必要なことであります。後ほど詳しく申し上げますが、政府が本来やるべきこと、それは市場を創造することでも、また市場に介入することでもありません。それらは、民間の役割であり、多くの場合において政府の参入はかえって市場を歪めます。政府の仕事は、夜警国家の時代に戻れとはいいませんが、経済面では、せいぜいルールの整備であり、競争力強化に資する基盤の整備だと思うのであります。
その中には、今日課題となっている都市再生や住宅環境の整備、そして税制の整備も含まれます。ただし、都市再生や住宅環境の整備も、政府が自ら直接行う必要はまったくありません。民間がそれを実施できるように環境を整備し、誘導する。せいぜいその程度であります。政府の直接的な介入は、かえって民間の活力を削ぐことが多いのであります。
税制については、少し風景が違います。税制は、ある意味で国の設計そのものであり、この国をどの方向に持っていこうとするのか、時の政権の意思が如実に現れるからであります。
先週末、与党税制改正大綱がまとまって平成15年度税制の改正が一段落いたしました。経済活性化を重視し、総額で1.8兆円規模の先行減税となったことは評価したいと思っております。とりわけ、大胆な研究開発減税、IT等の投資促進税制の実現は、日本経済の活性化や企業の国際競争力強化に役立つものでありますし、資産デフレ対策として住宅取得資金についての贈与枠の拡充や土地流通課税の軽減を行ったことは評価できます。金融証券税制についても、一定の改善がありました。
一方、大企業に外形標準課税を導入することや、連結付加税を存続させたことは、せっかくの大規模減税の効果を削ぐものとなっています。特に外形標準課税は、一定の歯止め措置がとられているとはいえ、雇用や自己資本の充実を妨げるものであり、日本経済の活性化を阻害するものであります。政府には、こうした施策については、再考を求めてゆきたいと思っております。
このように今年の税制改正の中身を振り返ることはできるのでありますが、今年の春先に「シャウプ改革以来の税制抜本改革」と言っていた機運からすると、少々拍子抜けする結果と言わざるを得ません。この国に染み付いた現状維持と先送りの体質が、ここで噴出したように思われてならない一年であったと感じております。

国のかたちを変える

とはいえ、私どもは改革の手を緩めるわけにはまいりません。社会を変え、政府を変え、政治を変える。そして、経済の世界では民主導の自立型システムを創造し、自助努力社会に相応しいセーフティーネットを構築しなければなりません。
まず、どのように社会を変えるべきか、という点から申し上げたいと思います。冒頭で申し上げましたように、物質的な豊かさは、もうこれ以上望めないほどに満たされております。所得も、世界最高水準に達しています。もちろん、銀座の高級レストランで毎日フランス料理を食べたいと言われたら、サラリーマンには無理な相談ですが、フランス料理だけが満足度を高めてくれるものではありません。人間は多様であります。所得に天井があるとしたら、その枠内で最高の満足が得られるように工夫したほうが、フランス料理を食べにいけないと嘆くより幸せであります。
もちろん、個人の持つ能力が最大限に発揮され、それを正当に評価する社会でなければなりません。日本の近代化の歴史は、産業の発展を通じた国力の充実が、個人の所得の拡大につながり、個人の経済的自立を促した歴史でもありました。そして、一人ひとりが自らの力でチャンスをつかみ、豊かな生活を手に入れる。その成功体験の積み重ねが、さらなる産業発展の原動力を生み出したと考えることができます。
しかし、その過程で、個人のライフスタイルは画一化が進み、必ずしも多様性をもたらしませんでした。これからの社会は、社会を構成するあらゆる主体が、個人であれ、企業であれ、地域社会であれ、また政府であっても、人がそれぞれ違うものだという認識を共有し、自分と違うものを受け入れる社会にしなければなりません。一朝一夕にはできませんが、一人ひとりが、そうした社会の創造に努めることが重要だと思うのであります。

こうした社会の中で、政府自体も変わらなければなりません。政府が果たすべき役割とは何なのか、これをもう一度問い直すべき局面になっています。
国民の生命・財産を守る。これは当然、政府の役割であります。一般家庭がホーム・セキュリティの契約をするようでは、政府は本来の役割を果たしているとはいえません。
所得の再分配をする。これも、やりすぎてはいけませんが、政府の仕事であります。
経済政策、このあたりになると、程度の問題になります。財政政策の時代が終わっていることは、世界の常識になっています。先進諸国の経済政策で、景気回復や雇用の維持・拡大に多用されるのは、むしろ規制改革であります。カネが使えないのですから、知恵で勝負するしかありません。規制改革にあまり熱心でない省庁もあるようですが、いつまでも、そうしていられるわけではないということを認識してもらう必要があります。
さらに政府には、真の国益を追求してもらわなくてはなりません。外国と仲良くするだけなら、外交など不要であります。日本の権益を国際社会の中で守る。在外邦人の保護もその一環でありますし、日本企業が海外に投資した資金を守るのもその一つであります。在京の外国大使館の動きをみていると、投資誘致や自国製品の売り込みに、極めて多くの時間を割いているように感じます。日本の在外公館に同じようにしろとはいいませんが、彼我の差を感じているのは、決して私だけではないと思うのであります。
さて、政府を変える中で、もっとも重要なのが「政策の責任を取る」ようにすることであります。民間企業は、結局は結果責任であります。技術者がいい製品を開発したといっても、消費者のニーズに合わず売れなければ何もなりません。政府の施策にも、こういったものがあるのではないかと常々感じます。
前例踏襲で、非効率に予算が使われていないか。自己満足で展開した施策が、予算も消化できずに放置されていないか。思ったような成果の出ない政策が、惰性で何年も実施されていないか。
こうした政策が絶えないのは、結局は責任をとる体制が欠けているからだと思われます。特に、本四架橋のような多額の予算を使う公共事業については、起案から執行にかかわった官僚の責任を追及する体制が不可欠であります。現在のシステムでは、緊張感がまことに欠けていると申し上げざるを得ません。

政治についてはどうでありましょうか。ほぼ政府についての問題が当てはまりますが、特に申し上げたいのが、本当の国益を追求する政治であってほしい、そしてビジョンを語る政治であってほしいということであります。スキャンダルに明け暮れる政治は、不必要であります。
どのような社会にするか、この国の利益を追求するための外交とは何か、社会保障制度の設計はいかにあるべきかなど、政治、とりわけ国政が語るべき課題は山積しております。
国益を語り、ビジョンを語る。そして、自らの描く社会を築く方策をもって論争する。そして、政策を立案して、大胆に実行する。それが政治のありようであり、国民が望む姿だと思うのであります。
そのためにも政治は、政権交代可能な政治勢力が対峙するような緊張した状態にあることが絶対に必要であります。90年代のような、離合集散が繰り返されるような政治状況は、決して日本のためにならないと思うのであります。

さて、こうした社会、政府、政治の変化を望むにしても、私ども経済人が最も関心を持つのは、経済システムそのものについてであります。申し上げましたとおり、日本は「最も成功した社会主義国家」と呼ばれた国家でありますから、官僚による予定調和の世界に慣れきった感覚が醸成されてきたことは否めません。
しかし、こうした日本のシステムは柔軟性を欠いており、少子化・高齢化の進展やグローバル競争の加速といった構造的な変化に、機敏に対応することができませんでした。環境変化に柔軟に対応できる、柔構造の経済システムを組まなければなりません。
何を捨て去り、何を取り入れるべきかは明白であります。政府による市場への介入は極力抑制し、市場の競争に経済を委ねることであります。財政政策の時代は終わっていると申し上げました。繰り返しになりますが、政府がなすべきは、市場での競争がフェアに行われるよう、ルールを設定することであります。
政策は、単なる弱者保護であってはなりません。競争力のある者が勝ち残り、敗者は起死回生を期す。要は自己責任の世界であります。政府が、一つ一つの事業を判断することなどできるわけがありません。日本全体の競争力が上がるように、全体の制度設計をすること。これこそが、まさにこの時代の政府の役割であると信じております。
もちろん、セーフティーネットは必要であります。憲法を持ち出すまでもなく、日本で暮らす人々は、文化的な生活を営む権利を持っていると思います。競争が激しくなれば、敗れる人も多くなります。再起の芽を摘まないように、基盤を残すことも必要であります。
そして何よりも、国民に安心を与える社会保障制度の構築が必要であります。社会保障制度は、自助努力では支えきれないリスクを、社会全体で支えあうためのセーフティーネットであり、このセーフティーネットがあってこそ、人々は安心して、自らの可能性に挑戦することができるのであります。
日本は高度経済成長を背景に、世界に冠たる社会保障制度を作り上げましたが、構造変化への対応が遅れたため、いまや制度自体が瀕死の重態であります。本来、安心を与えなければならない制度が、現役世代・将来世代にとって極めて大きな不安要因となっており、その目的とは逆に、企業や個人の行動を制約するようにすらなってしまっているのは、非常に皮肉なことであります。
問題の解決は、ある意味では単純であります。少子化・高齢化への対応ができなかったのですから、対応するような制度を設計し、導入すればよいのであります。
世代内・世代間で過度な所得移転が発生する仕組みであるため、制度を支える側の不信感が増幅されているということに、問題があるのも明らかであります。そうだとすれば、まず取り組むべきは、給付内容を少子化・高齢化が進んでも維持できる水準まで切り下げることになります。これで、一定額の給付は受けられるという、安心感を与えることもできると思うのであります。
第二の手当ては、「取りやすいところから取る」のではなく、「公平に負担する」仕組みとすることであります。何が公平かという議論は神学論争のようなものでありますが、公平を担保する社会的なインフラとして、幾度も議論されながら実現しなかった納税者番号制度の導入、そして税と社会保険料の一括徴収システムの構築が急がれると思うのであります。
現在の徴収システムでは、所得の捕捉システムについても大きな問題があると言われており、実際に多くの人が問題点を指摘しております。十・五・三・一(トウ・ゴウ・サン・ピン)、九・六・四(ク・ロ・ヨン)とは、すでに古語になりそうな単語でありますが、これが解消されたという話は聞いたことがありません。こうした不公平感を払拭するためにも、納税者番号制度は絶対、必要であります。

具体的には、どう変えればいいのでありましょうか。案はいろいろと出ておりますが、今日は簡単に、公的な年金と医療・介護、雇用の3つの分野について、改革の具体例をお話したいと思います。
まず公的な年金でありますが、短期的には、例えば2004年に基礎年金の国庫負担を50%に引き上げ、報酬比例部分の給付水準は、すでに受給している人を含めて5%引き下げる。そして2011年には基礎年金の国庫負担を70%に増やし、報酬比例部分の給付水準は15%引き下げる。
医療・介護については、当面、公的な医療保険の範囲を段階的に縮小し、医療・介護サービスを提供する主体を多様化する。高齢者医療・介護の公費負担割合を50%とする。2007年には包括払い制度を導入するとともに、高齢者医療の公費負担割合を60%にする。
雇用については、給付の重点化・適正化をするとともに、雇用三事業を縮小・廃止し、職業訓練や職業紹介の官民イコールフッティングを実現する。
こうした施策を講じれば、何とか日本の社会保障制度も維持することができるとの試算結果を日本経団連では得ております。
公的負担の財源は、当然、消費税だと思います。別の場所で消費税を年1%ずつ、16%まで引き上げることを提唱いたしましたが、実はあまり反応がありませんでした。あまりに率が高すぎて実感できなかったのか、あるいは消費税の引き上げに抵抗感がなくなったのか。いずれにせよ、少々拍子抜けする事態でありましたが、今申し上げたような社会保障制度の改革を講じた上でなければ、16%でも足りなくなるということは、十分に認識しておく必要があろうと思います。
人口構造の変化にマジックはありません。経済見通しとは違い、もっとも高い確率を持って実現する人口予測をもとに計算すれば、社会保障制度を改革し、消費税を上げる以外に選択肢はないのであります。

アジアとともに生きる

残された時間も少なくなってきました。本日の私からのお話しの最後に、このグローバル化の中での日本の生きる道としては、アジアの一員として歩むしかない、ということを申し上げたいと思います。
欧米をはじめとする諸外国の通商政策は、経済のグローバル化、企業間の国際競争が激化する中で、劇的に変化いたしました。EUは85年の単一市場白書、89年の経済通貨同盟創設のためのドロール・プランを相次いで公表し、関税同盟以上の連合体を目指しました。ヨーロッパ人はいやがりますが、「欧州合衆国」というものを建設することに、着々と布石を打ったのであります。
その布石は、92年の市場統合、99年の通貨統合に結実し、いまや経済面ではまったく国境のない「一つの欧州」が完成しております。同時期、米国も89年の米加自由貿易協定に続いて、94年にNAFTAを発効させたことは、われわれのビジネスにも大きな影響を与えました。
世界は、WTOを超え、戦略的なFTA競争に突入していると言っても過言ではありません。日本の通商戦略も、このラインに沿って変わってきておりますが、まだまだ不十分であり、歩みも遅いと言わざるを得ません。
国内産業の保護や、欧米との通商摩擦の回避に明け暮れる消極的な通商政策は、すでに80年代の遺物であります。WTOそのものの交渉には十分対応するとしても、それだけでは不十分であり、あらゆる国とFTAを念頭において交渉すべきであります。
その中で、欧米諸国と比べて、日本に最も欠けているリージョナルなアプローチをとることが不可避であります。中国をはじめとする東アジアの国々の台頭を、国内産業の空洞化と結びつけていたずらに脅威論を振りかざしていても、問題は解決しません。
東アジアでは、日本からの直接投資を起点として国際分業が進み、事実上の経済統合が進みつつあります。しかし、地域の経済関係をさらに深めるための制度的な枠組みの構築は、大きく立ち遅れています。その原因が、東アジア諸国における産業経済の成熟度の違いにあることは明白でありますが、もう一つ、この地域で圧倒的な経済力を有する日本のイニシアティブが欠如していたことも忘れてはなりません。
東アジアにおいて、自由経済圏構想を推進する時期にきています。これを新しい東アジア経済外交の基軸に据えていかなければなりません。しかし、日本として、この構想を進めるためのイニシアティブを取ろうとすれば、日本の市場を自らの手で開放し、バーゲニングパワーを持つ必要があります。そうでなければ、いかなる国も日本との交渉を望みはしません。
日本は、幕末と終戦の二度にわたり、外国からの圧力によって開国いたしました。いま求められているのは、自ら第3の開国を行うことであると認識しなければなりません。
欧米各国は、政治のリーダーシップのもと、大胆な構想を描き、不屈の精神と不断の努力でその実現に努めてきました。一衣帯水の関係にある国であっても、戦略と努力なしに連携は難しいのであります。
幸いにして、進め方は、すでにEUに先例があります。92年のEC市場統合は、モノ、サービス、ヒト、カネという、4つの要素の自由な移動を目標としておりました。その後の情報革命の進展を考えれば、東アジアでは「情報」という要素を含めた、5つの生産要素の移動、流通の自由を確保していくことが重要であります。
同時に自由経済圏が円滑に運営されるよう、地域インフラの共同整備、アジア通貨基金の創設、エネルギー・食糧分野等での域内協力を進めていくことも不可欠であります。さらに、地球環境問題など、東アジア諸国が直面するグローバルな問題を共同で解決していくため、協力体制を整備していくことも欠かせません。
このように5つの生産要素の自由化を進め、2つの分野で協力する。これを実現していく制度的な枠組みを構築することで、東アジア自由経済圏を形成することが可能になると考えます。
こうして出来上がった経済圏は、かつての大東亜共栄圏とはまったく異なるものになります。東アジア自由経済圏の形成は、地域のダイナミズムを強化し、東アジア経済の魅力を高めていくものであります。日本としては、この地域のダイナミズムを、今後の経済成長を生み出す活力の源泉とすることも可能であると思います。
東アジアにおいて、国際的に効率化された分業体制ができれば、日本も生産性を向上させ、グローバルな競争力を高めていくことが可能となります。また人口21億人を抱え、急速な経済成長が期待される東アジアが単一市場化すれば、それ自体で極めて大きなダイナミズムを発揮するでありましょう。
最も大きな意義は、世界経済のエンジンとなることができる点であります。これによって東アジアは、拡大EU、米州と並ぶ三極の一つとして、世界の政治経済システム全体におけるチェック・アンド・バランスの一翼を担うこととなり、安定したトライアングル構造が形成されることになるのであります。
日本のリーダーシップが必要であることは申し上げました。この地域で日本がリーダーシップを発揮することは、戦後、一種のタブーでもありましたが、いまやそれを怖れていては行動できません。
東アジアは、日本の市場、経済協力、直接投資を求めています。日本としては、まず市場を提供する。そしてインフラ支援を中心として、キャパシティ・ビルディングにつながるODAを供与する。さらに、自由経済圏を形成する過程で直接投資をさらに拡大する。こうした戦略と戦術を積み上げることで、日本のリーダーシップによる、東アジア自由経済圏を構築したいと願っております。

おわりに

日本が胸突き八丁の状態にあることは、誰もが感じていることだと思います。今、私どもは改革の先にある日本経済の復権を選択するのか、それとも現状維持のまま凋落の道を歩むのか。大きな岐路に立たされているのであります。
まさに、この2〜3年が日本経済の将来を決めると言っても過言ではありません。私は復権を選択したいと思います。そして、まず行動したいと思います。今日、私が申し上げたことを含めて、対策は書店に数々並んでいます。あとは決断と行動であります。今日おみえになった方々も、一人ひとりが行動を起こす。それを期待して、私の話を終わらせていただきたいと思います。
ご清聴、ありがとうございました。

以 上

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