経営タイムス No.2640 (2002年8月1日)

日本経団連・東富士夏季フォーラム

講演「グローバリズムの中の国家像」

− 京都大学教授・佐伯啓思氏


(1)「失われた10年」とは何だったか

 日本は世界のグローバリズムの潮流に乗り遅れ、構造改革が遅れてしまった。ここ10年の趨勢は、アメリカを中心とする国際的な秩序の再編成、国家間における力の均衡の再定義が起きたということである。
 1989−90年の冷戦の終結、社会主義の崩壊に伴い、アメリカは世界全体を政治的には民主化し、経済的にはグローバル化をはかり、透明で公正な市場とすることを世界戦略とした。
 この10年、アメリカの圧倒的な経済力、政治力によって、世界は動いてきた。アメリカは、明確に世界戦略を認識し、情報・金融部門へのシフト、世界的な民主化を打ち出し、「強いアメリカ」を再構成することに成功した。
 それに対して日本は、グローバル化の大転換をめざしたが、グローバリズムをどう推進するか、それによって得られるもの・失うものは何かについて、戦略的な判断がほとんどなされなかった。これが90年代の日本の大きな問題で、従来までの日本的システムに自信を失ってしまった。この中で、国家的なビジョンを考える余裕のないまま、この10年を過ごしてしまった。
 その結果、96−7年あたりから、少年犯罪を中心に異様な犯罪が多発した。しかも犯罪理由がわからないなど、その質も変わってきている。日本人の精神の上で、何か重要なものが失われつつある。「失われた10年」は、日本は経済だけではなく、社会秩序、社会的生活、精神生活までに至って、「失なわれた10年」と捉えられるべきである。

(2)社会の価値観が崩壊し始めている

 この10年というのは、グローバリズムの10年であり、国家のアイデンティティ、歴史、文化に意識的にならざるを得なかった10年であった。その極限が、イスラム原理主義・過激派によるテロであり、イスラム原理主義とアメリカが進める世界の民主化との対立と言えなくもない。
 グローバリズム以降の世界を理解するにあたり、2つの考え方がある。ひとつは、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」で、冷戦以後の世界はアメリカ型の市場民主主義が広がった世界だという考え方。もうひとつは、ハンチントンの「文明の衝突」で、グローバリズムが世界に拡がるほどさまざまな文明と西洋文明が衝突するという考え方である。ハンチントン的な考え方の方が有効だろう。
 自国のアイデンティティが、世界的な市場経済、競争社会と果たして両立できるかどうか、世界的に危機感が強まっており、自覚しておく必要がある。

(3)ナショナル・アイデンティティ(国家意識)を喪失した戦後日本

 日本は戦後、ナショナルアイデンティティをほとんど自覚していなかった。いま、自国のために戦おうと思う若者の割合は、世界的にみて日本は圧倒的に少ない。
 一方、国は国民のために何かすべきであると思っている割合は、日本は80%ほど、アメリカは20%ぐらいと、日米で数字が逆転している。
 豊かさと平和を背景に、戦後の日本人はナショナルアイデンティティについて自覚的に考えることをやめ、国が自然に存在していると錯覚している。これはアメリカに対する政治的、軍事的、精神的な依存によるものである。アメリカへの依存を明確にしたのは吉田政権であるが、まずは、精神的な自立、独立をいかに実現するかが重要である。
 日本の近代化は一極集中型で、都市に人口が集中し、地方は疲弊した。政策的には、国土全体の均質化を求め、地方ばら撒き型の公共事業を推し進めた。地方の凋落を金銭的、物的に支えようとしたわけである。それにより、戦後の日本は高度成長を達成したが、地方への公共事業に大きく依存した成長であった。民主主義が復活した一方、経済が中心となり、政治も利益の配分に向いてしまった。こうして、国益を考える舞台がなくなってしまったが、これは国家を意識することがなくなるという意味で大きな問題である。グローバリズムが進むいま、日本のあり方を意識せざるを得ない状況であることを自覚する必要がある。

(4)今、何をすべきか〜新しい国家像の再建

 ケインズは、グローバル経済が急速に発展していくなかで、英国の国益をいかに守るかを生涯のテーマとした。この考え方は、いまの日本に参考になる。
 日本は今後、人口減少、高齢化社会の到来により、明らかに低成長、縮小社会となり、さまざまなリスクが出てくる。失業率や犯罪、これまでなかったリスクなどをどう最小化するのか。成長を国家の目標にできなくなるとすれば、いかにして安定した社会状況をつくるかを考えることが重要となる。
 中小規模の都市の発展を促し、高度医療施設の充実や研究開発投資の拡大を図る。伝統的な景観の整備など地方都市の計画的な環境整備を行うとともに、コミュニティの形成を図り、10年後、20年後をイメージした公共計画の下、官と民の協調体制を確立すべきである。
 伝統的な美意識の喪失は、日本の価値観の喪失を意味する。この意識の欠如が、青少年の問題を引き起こしている。まずは、美意識、人間の信頼関係を再構築することが重要である。
 小泉首相は、大きなビジョンを示すことが先決であり、構造改革はその流れのひとつとして位置づけるべきである。


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