(公財)経団連国際教育交流財団日本人大学院生奨学生留学報告

消えゆくことばを追って―ブルガリア留学の思い出―

菅井 健太 (すがい けんた)
2014年度奨学生
東京外国語大学大学院からソフィア大学に留学

パルカヌィ村でのブルガリア語方言調査の際に、方言話者のおばあちゃんたち
から自家製ワインと庭でとれたばかりの野菜で歓待を受ける。(筆者は一番右)
ソフィア大学“聖クリメント・オフリドスキ”のブルガリア語研究室にて、
最終試験の口頭試問後に指導教官の先生方と。(筆者は左から2番目)

私は2014年10月から2年間、ブルガリア共和国の首都ソフィアにあるソフィア大学“聖クリメント・オフリドスキ”に留学し、ブルガリア語を中心にスラヴ言語学を学んだ。私の研究テーマはルーマニア領内で話されるブルガリア語方言に見られる文法構造の研究である。およそ200年近く前にドナウ川を越えてルーマニア領内に移住した人々が形成した集落の中には、今でも公用語のルーマニア語以外にかつてのブルガリア語方言を仲間内で使用している集落がある。しかし、現在では現地との同化がかなり進み、ブルガリア語方言を保持しているのは概して高齢者に限られ、これらの方言は近い将来に失われてしまう運命にある。私が特に関心を持っているのは言語接触による言語変化である。圧倒的なルーマニア語環境の中で、彼らのことばがどのような影響を受け、どのように変化しているかを分析することは現在執筆中の博士論文の研究テーマであり、現地の専門家の指導を受けながらその研究を深めていくことは留学の大きな目的でもあった。大学の講義や試験も、指導教官の研究指導もすべてブルガリア語でこなすことに最初は慣れない部分もあったが、学友の協力はもちろんのこと、先生方の親切丁寧なご指導によって、落ち着いた環境でじっくり研究に取り組むことができた。また、留学中に大学の内外の友人に誘われて、田舎に泊まらせてもらう機会も多々あったが、都市圏では残っていないようなブルガリアの文化や習慣に直接触れるという貴重な機会にも恵まれた。たとえば、ブドウをつんでワインづくりを体験したり(田舎ではみんな自家製ワインを作っている)、夜中まで民族舞踊の踊りに付き合ったり、古代遺跡を訪れたり。このような大学外での文化体験も、今回の留学によって得た大きな財産である。

今回の留学のもう一つの目的は、フィールドワークを通じて消えゆくことばをできるだけ多く記録することだった。地理的な近さを利用して、留学中にはブルガリア語方言話者を訪ねて休みのたびに国内外の複数の調査地を訪れた。面白いエピソードがある。私が彼らにブルガリア語で話すと、お年寄りたちは口をそろえて「お前はブルガリア人か」と聞いてくる。私はどこをどう見てもブルガリア人とは容姿が異なるのにだ。日本人だ、と答えると「そうか」とは言うものの納得がいかない様子。ブルガリア国外のルーマニア語が公用語である環境で育った彼らにとって、仲間内でしか使わないブルガリア語を話す人間はブルガリア人に他ならないのである。このエピソードは、言葉というものが、単なるコミュニケーションの手段にとどまらず、その背景に言葉を話す民族はもとより、文化や生活、歴史などすべてを含んでいるということを端的に示している。私はことばの仕組みを研究するためだけに言語調査をしているつもりであったが、フィールドワークをする機会を得て、改めていろいろなことに気づかされた。

留学を終えて帰国した今、現地での調査や研究成果をもとに、博士号取得を目指して、博士論文の執筆に取り組んでいるところである。また、今回の留学では多くの経験や知識を得るとともに、たくさんの同僚や第一線で活躍している研究者とも知り合うことができた。この留学で得たものを、今後の研究活動や教育活動に還元していきたいと考えている。最後に、留学の実現にご支援くださり、このような貴重な機会を与えてくださった経団連国際教育交流財団の皆様に心から感謝申し上げます。

(2017年3月掲載)

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