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研究室メンバー(秘書室・図書室)との集合写真。
本人は後方右から二番目。
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筆者は中近世ドイツにおいて周辺社会の様々な眼差しの中で、大学がいかなる自意識を形成しそれを維持・主張したか、に関心を抱き、ミュンスター大学の法学部法制史学科へと留学した。
大学とは何か。パリとボローニャの、学生と教師のギルドに起源を持つ大学というシステムは、本来自治的な存在であった。しかし時が経つにつれ大学は設立者との結びつきを強め、君主の統治の為の一機関としての性格が強調されるようになっていく。そして近世に入ると、近代社会を準備しつつある領邦国家との結びつきの中で、たとえば官僚の養成機関と看做され、中世の大学が有していたはずの主体性は研究の関心対象から外れていく。筆者はこのような大学の「外から」に終始した説明に疑問を抱き、主体性を近世の大学にも認め一つのアクターとして再定位することを研究課題として設定し、中世末期から宗教改革期までのケルン大学とインゴルシュタット大学を事例に研究を進めている。
あらゆる留学にはそれぞれの困難があるだろうが、筆者の場合も、準備期間にはコロナ禍を経験し、いざ留学が始まるという頃には、ウクライナ戦争が勃発するなど、そもそも留学が無事始まるのかさえ危ぶまれるなど、振り返ってみれば中々の困難を抱えて始まった。幸い筆者の場合は今日まで無事研究活動に専念してこられたが、その影響は主に物価高・エネルギー危機・通貨の不安定化などを介する形で2024年夏現在も続いている。このような財政上の危機に対して、貴財団の手厚い支援は筆者の不安を取り除くものであり、研究の安定的な継続に大きく資するものであった。改めて感謝の意を示したい。
また、受入教授の熱心な指導と温厚な人柄は研究継続の大きな支えとなった。専門的な法学教育をバックグラウンドに持たない筆者の議論を否定することなく、拙いドイツ語から真意を汲み取り、常に励ましてくれる彼の指導なしには、これほど順調に研究が進展することは望むべくもなかっただろう。
多くの未刊行史料や最新の研究成果に触れ議論する機会に恵まれたこの留学は、疑いなく実り豊かなものだった。加えて、外国史を生業とする上で最も得難い地理感覚を、参加した国際学会や史料調査の際に自分の足で把握できたという点でも、この留学は大きな糧となった。2025年の春に筆者は帰国するが、それまでに博士論文をミュンスター大学へ提出する計画である。進路は現在未定だが、外国史に携わる者として「対象国で学ぶ」ということの意味を僅かばかりでも次世代へ伝えることができれば幸いである。
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ミサに参列する騎士団と聖堂参事会員。
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ミュンスターの目抜き通りの夜景。
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ミュンスターの司教座聖堂。
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ミュンスター名物の自転車。
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(2024年10月掲載)