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2006年日本経団連労使フォーラム
奥田会長基調講演

2006年1月12日(木)
於:新高輪プリンスホテル

(はじめに)

ご紹介をいただきました奥田でございます。
本日は、日本経団連の「労使フォーラム」に、このように多数の皆様にお集まりをいただき、まことにありがとうございます。
この「労使フォーラム」は、旧日経連時代の「全国人事労務管理者大会」から通算いたしまして、第108回を数えることとなりました。経団連との統合以降は、毎年春季労使交渉を控えたこの時期に、労使のリーダーのみなさんにお集まりいただくこの大会を「労使フォーラム」として開催し、春季労使交渉に向けたわが国経済や企業経営、労使関係をめぐる様々な課題につきまして議論し、対応策を考えていく場といたしました。この「労使フォーラム」としての開催は、今回で4回目となりますが、幅広い問題意識のもとに、グローバル化時代、情報化時代の企業経営や労働政策などについて考えていく場として定着してきているものと思います。お集まりの皆様には、引き続きご支援をたまわりますよう、まずもってお願いいたします。
本日は、今日、明日と開催される本フォーラムの基調講演ということでありますので、これまでの日本経済、世界経済をふりかえりながら、これからの社会と企業の進むべき道を、私なりに展望してまいりたいと思います。

1.日本経済の振り返りと評価

(日本経済の現状)

まず、日本経済の現状をみてみますと、景気は2002年初めから回復に転じましたが、2004年後半からは足踏み状態となり、いわゆる「踊り場」となりました。その時点では、エコノミストの見方も、踊り場を抜ければ再び上昇に転じるとの意見と、踊り場から後退局面に向かうとの意見とに二分されており、日本経済に対する見方も半信半疑といったところでした。
その後、昨年の夏以降、経済は踊り場を脱し、回復基調となっておりますのは、ご承知のとおりです。原油価格に代表される原材料の高騰や、アメリカや中国の経済動向、あるいは鳥インフルエンザなどの懸念材料もあり、依然として楽観は許されませんが、このままリスク要因が出てこなければ、本年も日本経済は、引き続き堅調な推移をたどるものと期待しております。
バブル経済とその崩壊によるダメージはきわめて大きく、日本経済はその後、若干の浮き沈みはあったとはいえ、総じて低迷を続けてまいりましたが、構造改革の成果や、私たち民間企業の経営努力と業績の向上によりまして、ようやく、この長きにわたる低迷を脱し、日本全体を取り巻いてきた閉塞感も薄れてきたのではないかと思います。

(小泉改革の進展)

小泉改革について申し上げますと、2001年に、大方の予想をくつがえして、小泉純一郎氏が自民党の総裁に選出され、総理大臣となりましたが、この選択はまさに、「このまま改革、変革を断行しなければ、日本が滅びかねない」という国民の危機感のなせるわざであったと思います。それ以来、小泉総理は国民の強い期待と支持を背景に、強力なリーダーシップにより、大胆な改革を進めて来られました。
産業再生、金融再生といったバブルの後遺症の後始末のかたわら、構造改革特区などに代表される規制改革と地域の活性化、今回の郵政民営化に代表される民間開放や行政の効率化、司法制度改革など、枚挙にいとまのない改革が矢継ぎ早に実施に移されました。さらには、税制改革、社会保障改革、または地方分権の三位一体改革などといった大きな取り組みが、現在進行形で進められております。
日本経団連も、小泉総理の就任と同時に、小泉構造改革路線を支持するとの姿勢を打ち出し、2003年1月にはいわゆる「新ビジョン」を作成して、消費税の活用をふくむ税制・財政・社会保障の抜本改革や、東アジア自由経済圏の構築などの総合的な政策パッケージを提案し、積極的な提言活動と、その実現に向けた活動を行ってまいりました。さらには、こうした政策本位の政治を実現するために、政治寄附を企業の重要な社会貢献として位置づけ、経団連として優先政策事項を策定し、それにもとづく政党評価を行うなど、各企業の自発的な政治寄附を要請してまいりました。
この結果、減少を続けてきた政治寄附も底を打ち、増加に転じております。また、私自身も、経済財政諮問会議の民間議員などの立場で、微力ながら小泉構造改革の実現に尽力してまいりました。

(研究開発への努力)

このように、日本経済が復活を遂げるうえで、政治、行政の役割は非常に大きなものがあったわけでありますが、私はそれ以上に、われわれ民間企業自らの努力の成果が大きかったものと自負しております。
「失われた10年」、あるいは「失われた20年」などといわれた苦難の時期に、われわれ民間企業は、厳しいスリム化や事業再編を迫られました。この時期は、日本経済がバブル崩壊による深い痛手を受けていたところに、東西冷戦の終結や情報通信革命、いわゆるIT革命による経済のグローバル化・ボーダーレス化の急速な進展や、開放路線に転じた大国・中国経済の台頭といった急激な変化が起こり、ドルショックやオイルショックの時代をも上回る、おそらくは戦後初めての激変期ではなかったかと思います。
こうした中で、金融業界や石油元売業界をはじめ、多くの業界で勝ち抜き、生き残りをかけた業界再編が行われましたし、負債や供給能力の過剰を削減するために、多くの企業では文字通り身を切るようなリストラが進められました。しかしながら、こうした中でも、日本企業は歯を食いしばって将来にむけた研究開発や人材育成への投資を続けてまいりました。
各社が業績の悪化に苦しみ、工場閉鎖や希望退職といった厳しい取り組みを余儀なくされていた時期ですら、研究開発投資は、あたかも残された最後の「聖域」であるかのように、減額が抑制され、あるいは増加しておりました。これに対しては、政府も研究開発費について税制上の恩典を与えるなど、呼応した動きもありました。こうした日本政府、企業、経営者の懸命の努力が、こんにちの企業業績の向上に結びつき、日本経済をよみがえらせたといっても過言ではないものと思います。もちろん、そこには各社に働く人たちの懸命の努力、経営施策への協力があったことも、忘れることはできません。

(雇用への配慮)

もうひとつ重要なのが、雇用に対する配慮であったと思います。私が日経連会長に就任いたしましたのは99年の5月でありまして、もう7年近く前になりますが、当時の完全失業率は4.8%に達しておりました。その年の1月に、あるエコノミストが『大失業』という本を出しておりまして、かなり話題になった本ですので、見かけた方もおられるのではないかと思います。この本には「雇用崩壊の衝撃」という副題がついておりまして、日本の雇用慣行をアメリカ型のものに変革しなければ、2005年、ちょうど去年にあたりますが、2005年には失業者が約640万人になり、失業率が9.5%になると書いてあります。もちろん、現実にはそんなことは起こらなかったわけでありまして、日本の雇用慣行は全然アメリカ型にはなっていませんし、それでいて2005年、昨年の失業情勢は、まだ統計は出ておりませんが、失業者が300万人ちょっと、失業率は4%台の半ばというところだろうと思います。
とはいえ、私が日経連会長に就任した当時は、こうした意見も声高に主張されていたのであります。私は、日本企業がアメリカのようにどんどん社員を解雇すれば、経済が活性化するどころか、失業率が一気に10%以上に跳ね上がって、深刻な社会不安が発生するのではないかと考えました。そうなれば、企業にとっても国内需要が大幅に減少し、デフレも深刻化して、社会全体がメルトダウンしかねないわけでありまして、私だけではなく、多くの企業経営者も、同じような考えを持っておりました。
そこで私は、日経連会長に就任すると同時に、これまで日本企業が「日本的経営」の根幹として重視してきた「人間尊重」と「長期的視野に立った経営」を今後も守り、雇用の維持・確保に全力を尽くすことを呼びかけてまいりました。いささか下世話な表現ではありますが、経営者に向かっては「首切りするなら自分が切腹しろ」と訴えたのも、この時期であります。
幸いにして、この私の訴えは、大多数の経営者の支持を得ることができ、多くの企業で雇用維持に最善の努力が尽くされたと思います。もちろん、万やむなく希望退職の募集などに踏み切らざるを得ない企業も多くありましたが、その場合でも、それは最後の手段として位置づけられ、その規模は必要最小限にとどめられ、また、割増退職金などで最大限の配慮が行われることが多かったように思います。もちろん、そこには、各社の労働組合の真摯な取り組みがあったことも忘れることはできません。
このような労使の努力の結果、雇用失業情勢をみましても、たしかに過去数十年間でもっとも厳しい時期ではありましたが、それでも完全失業率の悪化は年平均5.5%にとどまり、欧米諸国のように10%をこえるといった事態を招くことはありませんでした。もちろん、長期にわたる経済の低迷、その中でのかつてない雇用失業情勢の悪化ですから、さまざまな部分で大きな弊害がもたらされたことも、事実であります。経済的な理由による中高年の自殺の増加、就業構造の変化によるフリーターの増加や若年無業者の増加、あるいはホームレスの増加など、いろいろなところにひずみ、ゆがみが出てきており、その対策が急がれていることも、十分理解しております。とはいえ、これらの多くは、経済が回復することで、相当程度改善されることが期待できることも、また事実であります。
そういう意味では、日本社会を、回復不可能なほどのハードクラッシュに陥らせることなく、長期にわたる経済の低迷を乗り切ることができたのは、われわれ民間企業が、いわゆる「日本的経営」の根幹である「人間尊重」と「長期的視野に立った経営」の理念を堅持し、雇用維持に配慮しながら、グローバル化に適切に対応した成果ではないかと思います。
もちろん、その過程では、たとえば硬直的な年功賃金を見直したり、業績の変動を賃金ではなく賞与に反映させたり、仕事のしくみや働く人のスキルを情報化に適応したものに改めたりするなど、さまざまな改革に労使が協力して取り組んできたことも、雇用の維持に大きく寄与してまいりました。これはまさに、わが国の民間労使が長年にわたって大切にしてきた生産性運動の理念、雇用維持、労使協議、そして生産性向上の成果の適正配分という考え方そのものであったといえると思います。
こうしたことを考えますと、われわれ民間労使は、「人間尊重」や「長期的視野に立った経営」といった経営理念、あるいは労使協調で生産性運動に取り組む労使関係の普遍性に、あらためて自信を深めるべきではないかと思います。そして、それをさらに発展させ、進化させていくことこそ、われわれの未来を築く道なのではないかと考えるのであります。

2.世界経済の振り返りと評価

(グローバライゼーションの時代)

さて、続きまして、目を日本国内から国際社会に転じたいと思います。
やはり、簡単に近年の推移をふりかえってみますと、わが国がバブル経済の、まさにうたかたの繁栄を謳歌しているころ、世界では東西冷戦終結にともなう経済のグローバル化・ボーダーレス化が一気に進行いたしました。さらに、1990年代にはいわゆるIT革命が爆発的に進展し、資金と情報が国境を越えて瞬時に移動するグローバライゼーションの時代に突入したのであります。
このような、世界規模での市場経済の拡大は、経済活動を活性化し、新たなビジネスを生み出し、新技術、新製品の開発を促進するなど、国際経済にきわめて大きなメリットをもたらしました。今後、こうした流れをさらに促進し、貿易自由化を推し進めるにとどまらず、資本や労働力もより自由に移動できるようにしていくことで、世界経済の一段の発展をはかっていくことが重要であります。わが国も、この流れに乗り遅れることは許されません。WTOの交渉に早期の成果がなかなか期待できない中、昨年末には、マレーシアとのEPAの合意文書に署名され、シンガポール、メキシコに続くわが国の3番目のEPAが発効する見通しとなっておりますが、わが国のEPAへの取り組みは、世界の各国と比較して、内容的にも、スピードの面でも、非常に物足りないものにとどまっております。日本がグローバル経済に取り残されることがないよう、政府の一段の取り組みを求めたいと思います。

(グローバル化にともなう新たな問題(1)−マネーゲームと通貨危機)

さて、その一方で、グローバル化が国際社会にさまざまな新しい問題をもたらしたことも、否定できない事実であります。
たとえば、巨額の資金を動かしてマネーゲームで巨利をあげるヘッジファンドの活動が活発になり、それはときに国家経済をもゆるがすようになりました。1997年にはアジア諸国がその大波に襲われ、アジア通貨危機が発生して、とりわけタイ、インドネシア、韓国は大きな打撃を受けました。
これはすでに、過去の記憶となってしまったかもしれません。しかし、私は、1999年に通貨危機への支援の成果を確認する「アジア経済再生ミッション」の団長としてアジア五カ国を訪問し、その各地で、普通の一般庶民が職を奪われ、財産を失い、家族の絆がずたずたにされている実態を目の当たりにして、強い衝撃を受けたことを、忘れることができません。国民の生活が投機的なマネーの動きによって、一瞬のうちに踏みにじられたのであります。

(グローバル化にともなう新たな問題(2)−格差の拡大と紛争の増加)

また、グローバル化が新たな格差を生み出したことも、見過ごすことはできないと思います。
東西冷戦の終結により、イデオロギー対立にもとづく紛争がなくなって、世界平和が実現されるのではないかという期待は、2001年9月11日にアメリカで発生した同時多発テロ事件によって、完全に打ち砕かれました。イラク戦争をはじめ、局地的な紛争やテロ事件は、むしろ増加する趨勢にあります。
その大きな原因の一つとして、グローバル化とIT革命がもたらした格差の拡大と貧困があることは否定できません。国においても、個人においても、富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなるという傾向が強まっていると世界中で感じられているのではないかと思います。そして、こうした格差の拡大が、宗教問題や人種問題と同調し、対立をより鋭いものとして、局地的な紛争へと結びついているのではないかと考えます。これは、先進国もその例外ではありません。昨年の11月に、フランスで移民を中心とした大規模な暴動が発生し、ついには死者も出て、政府が非常事態宣言を行うといった事態に立ち至りました。その根本には郊外の移民居住地区の貧困と、階層の固定化があることは、繰り返し指摘されているところであります。G7の一員であり、国連安全保障理事会の常任理事国である国においても、このような実態があるのであります。また、その1ヵ月後の昨年12月には、オーストラリアのシドニー郊外でも、人種間の対立感情に根ざした暴動が発生しておりますが、こうした現象はこんにちでは決して珍しいことではありません。

(グローバル化にともなう新たな問題(3)−環境問題)

もう一つ、きわめて重要な問題として、環境問題を指摘しなければなりません。
とりわけ、BRICs諸国など新興工業国の産業の発展、経済成長が、地球環境に深刻な影響を与えるのではないかとの懸念は、随所から提示されております。グローバル化の進展にともない、地球環境や資源の有限性がより一層明らかに意識されはじめ、国際社会は持続可能な経済社会の構築に向けて大きなパラダイム・チェンジを迫られております。
この問題については、国を越えた国際社会レベルでの取り組みが必要であり、それに向けた努力も続けられております。その代表的なものが昨年2月に発効した京都議定書でありますが、残念ながら、京都議定書では中国やインドは温室効果ガスの削減義務を負っておらず、また、アメリカも途中で離脱しておりまして、国際的な取り組みとしては力不足であると申し上げざるを得ません。全ての国が温暖化防止に参加する新たな国際的枠組みの構築が喫緊の課題となっております。

(グローバル化の先にめざすべきもの)

このように、グローバル化はさまざまな新たな問題をもたらし、それは決して小さなものではありません。しかし、さきほども申し上げましたように、グローバル化がもたらす恩恵はそれを上回るような大きいものであると私は思いますし、時計の針を逆に回すことはできません。繰り返し申し上げておりますように、国際社会は大きなパラダイム・チェンジのなかにあります。さまざまな弊害は、世界がグローバル化の新たなステージへと移行していく、その過渡期における混乱なのだと思います。大切なのは、この激変期の先に、どのような社会を展望するかであります。グローバル化のもたらす活力を最大限に生かしつつ、その弊害を最小限に押しとどめる、そのような仕組みづくりに、各国が全力をあげて知恵を出していくことなのではないかと思います。
それがどのようなものであるかは、冷戦終結以降の約20年間にわたる各国の経験から、ほぼ明らかになってきたのではないかと思います。
われわれがめざすべき世界とは、多様な価値観を持つ国々、人々が互いに違いを認め合い、尊重しあいながら、健全な競争を通じて活力と成長を実現していく経済社会であると私は考えます。国であれ個人であれ、格差を認めないのではなく、それぞれの主体の活力が高まるような格差であれば積極的に是認し、それを通じてすべての参加者の底上げが図られていくことが望ましいと考えます。貧しいものはいつまでも貧しいのではなく、つねに向上の機会が確保され、そのための支援が行われなければならないと思います。
そうして、多様な国々、多様な人々が共存し、互いに競争し、協調する中から、新たな発想や画期的な技術が生まれ、平和と将来の成長がもたらされるというのが、これからの望ましい世界の姿ではないかと考えるのであります。

(経済界・企業労使の役割)

もちろん、理想を口にすることは簡単ですが、それを実現することは大きな困難をともなうことは、私も十分承知しております。
多様性を生かしていく上においては、「共感と信頼」が絶対的に必要となります。他者が自分と異なるものを求め、生きていることを理解し、尊重する寛容さが個人にも企業にも国にも求められるのであります。こんにちの世界における民族対立、あるいは宗教対立といったものを見ますと、これは絶望的なものにみえるかもしれません。しかし、私は希望はあると考えております。人間は本来多様なものでありますが、一方で同じ人間なのですから、ほとんどにおいては共通しているのでありまして、だからこそ違いがより大きく意識されるのではないかと思います。
それにもかかわらず、一部の違いに寛大になれない最大の理由は、私はまさに貧困にあると考えるのであります。貧困ゆえの憎悪、貧困ゆえの狂信といったものが、「憎まれるから憎む」「憎むから憎まれる」といった憎悪の連鎖をもたらし、民族対立や宗教対立の根本的な原因になっているのだとしたら、私はそれは技術の進歩と経済の発展、生活水準の向上で克服できると信じるのであります。
もちろん、それだけですべてを解決することは難しく、ほかにもさまざまな努力が必要だろうとは思います。とはいえ、少なくとも、私たち経営者、あるいは民間企業労使にできることがあるとしたら、企業活動のグローバルな展開を通じて、世界の各地で長期にわたって技術の進歩、生産性の向上に取り組み、経済を発展させ、雇用を創出していく、まさにそのことではないかと思うのであります。
そして、近年のわが国の経験をふりかえれば、それを可能とする経営理念とは、私たちが大切にしてきた「人間尊重」と「長期的視野に立った経営」であるということに、私たちは自信を持ってもいいのではないか、これを本日、私はみなさんに申し上げたかったのであります。

3.企業労使が果たすべき責務

私は日経連の会長に就任いたしました際に、私自身の理念として、「人間の顔をした市場経済」、「多様な選択肢を持った経済社会」をめざしたいと申し上げました。日経連が経団連と統合し、新しくできた団体の初代の会長にはからずも推されました際にも、私の信念として、「共感と信頼」に支えられた、「多様性の持つダイナミズム」が創造と活力を生む経済社会を実現したいと申し上げました。それ以来、こんにちまでの経験を通じまして、私のこの信念はますますゆるぎないものとなりつつあります。それこそが、世界の未来に平和と成長、繁栄をもたらす道であると確信しております。
そのためにわれわれ企業労使、経営者が果たすべき役割、責務はどのようなものなのか、三点申し上げたいと思います。

(付加価値の創造と雇用の創出)

第一の責務は、申し上げるまでもなく、企業活動を通じて付加価値を生み、雇用を増やし、経済を活性化し続けることであります。
これは、行動様式としては、昨日より今日、今日より明日と、日進月歩で技術と生産性を向上し、人材を育て続けるプロセスでありまして、まさしく「生産性運動」にほかなりません。これはみなさんには釈迦に説法でしょうが、生産性運動における生産性とは、単なる効率とは異なる概念です。
1959年の、ヨーロッパ生産性本部による定義を申し上げますと、「生産性とは、何よりも精神の状態であり、既存するものの進歩、不断の改善を目指す精神状態である。それは、今日は昨日よりも、明日は今日よりもまさるという確信である。それはまた、条件の変化に、経済生活を不断に適応させていくことであり、新しい技術と新しい方法を応用せんとする努力であり、人間の進歩に対する信念である」となっております。別のところでは、「生産性とは、効率に人間を幸福にする技術を加えたものである」とも書かれております。私たち労使は、今後ともこの生産性の理念を共有し、堅持して、ともども国家経済の発展に貢献していかなければなりません。
具体的には、企業、経営者は多様な従業員に多様な活躍の場を提供し、その最善のパフォーマンスと生きがい・働きがいの実現をはからなければなりませんし、従業員はこれに応えて、自らの進歩に努めることが望まれます。

(新技術の開発)

第二の責務は、人類を幸福にする新しい技術、ノウハウ、商品、サービスを創造すべく、研究開発投資を増やし、同時にその担い手の育成に取り組むことであります。
さきほど申し上げました地球環境問題や資源問題などは、技術の進歩による克服が期待されることは、申し上げるまでもありません。ICTをはじめとして、バイオテクノロジーやナノテクノロジーなどの先端分野では、夢のある画期的な未来技術の種がいくつもみつかっております。これらの技術を、人類の幸福、豊かさにつながる商品やサービスとして実用化していくことは、企業の重要な役割ではないかと思います。ここで気をつけなければいけないのは、画期的な技術であればあるほど、当然ながらその開発と実用化には時間とコストがかかるということであります。これを考えればなおさら、経営者は常に長期的視野を持って、未来を見据えた経営を行わなければならないことになるものと考えております。

(企業市民としての行動)

そして第三の責務は、オープンでフェアな企業活動を展開することではないかと思います。
近年、企業による不祥事が相次いでおり、きわめて残念に感じております。日本経団連としても、2004年5月に企業行動憲章を改訂し、経済界に対するその趣旨の徹底や事例の紹介などの啓発活動に力を入れておりますし、毎年の10月を「企業倫理月間」として、私自身も日本経団連の全会員に向けて、企業行動憲章に沿った行動を強くお願いしてまいりました。しかしながら、昨年も、多数の死傷者を出した列車の脱線事故や、公共事業をめぐる談合などが発生しておりまして、依然としてまことに憂慮にたえない状況にあり、私自身、努力不足を痛感しているところであります。
グローバル化や情報化が進展する中では、あらゆる不公正・不透明な行動は許されません。企業倫理の確立と、公正で透明なルールにもとづく企業活動が求められることになります。さまざまな企業不祥事の根本には、こうした環境変化に、わが国の社会や商慣行、ビジネスの仕組みなどが適応できていないことがあるのではないかと思います。かつての日本では、国内の、さらに業界内の閉ざされたサークルの中では、たとえば官製談合のようなものが事実上黙認されるようなこともあったのかもしれませんが、もはやそのような時代は完全に過去のものとなったのであります。経営者は事業活動の全責任を負うものとして、関係者の先頭に立って、グローバルに通用する経営理念や行動規範を構築するとともに、自ら現場に足を運び、その実態に即した実践的な活動に取り組む必要があります。
これからの経営者は、行政による規制や保護、あるいは業界内部のいわゆる「民々規制」といったものに頼らず、ルールに則って市場での競争に挑み、民間企業が本源的に持つ活力と企業家精神を発揮していかなければなりません。行政にはそのための環境整備として、規制改革・民間開放を中心とした改革の断行を強く求めたいと考えております。

4.おわりに−経営者よ正しく強かれ

お手元に、本年版の「経営労働政策委員会報告」をお配りいただいていると思います。日本ガイシの柴田会長が委員長となられて、精力的におまとめいただいたものでありますが、今年の副題は、「経営者よ正しく強かれ」といたしております。
これは、みなさんもご承知のとおり、1948年に日経連が結成された際のスローガンでありまして、その当時、これの意味するところは、「不当な労働運動の暴力に屈することなく、使命感を持って戦後経済復興の先頭に立とう」ということでありました。実際、日経連の設立総会の写真を見ますと、演壇の右側にはこの「経営者よ正しく強かれ」、左側には「経営者よ経済復興の先頭に立て」というスローガンが、黒々と墨書されて掲げられております。
今回、私があえてこのスローガンを持ち出しましたのは、これからの経営者に求められるものを端的にいえば、やはり「正しさ」と「強さ」ということになるのではなかろうか、と考えたからであります。もちろん、その意味するところは、今日的なものに変化しておりますが、そのことばの本質的なところには、変わりはないと思います。
さきほど、企業不祥事のことを申し上げましたが、本来企業というものは、不祥事を起こさずに利益を上げればそれでいい、というものでもないはずです。ところが、このところ、儲かるのなら手段を選ばない、という印象を受けるような事例が散見されます。経営がこうした考えによって行われるとしたら、その企業が社会から共感や信頼を得られないばかりか、資本主義経済自体の瓦解も懸念されるような事態を招きます。こんにちの経営者には、「高い志」と、常に「自省する心」を持つことが求められております。
そこで私は改めて、「経営者よ正しく強かれ」と申し上げたいと思います。
こんにちにおいて、「正しさ」と申しますのは、フェアに競争し、企業の社会的責任を果たし、経済の発展と人類の幸福に貢献するという「志」を持つことを意味しております。そして、「強さ」とは、「人間尊重」と「長期的視野に立った経営」に対する揺るがぬ信念のもとに、自ら新たな価値の創造に繰り返し挑んでいく不屈の「気概」を持つことを意味しております。もちろん、多様性に対する尊重なくして、真の「正しさ」「強さ」はありえないということは、申し上げるまでもありません。
こうした経営者の姿勢が従業員の共感と信頼を呼び、労使がともにその役割を果たし、進歩を続けていくことによって、経済社会の明るい未来をひらいていけるものと確信しております。

最後になりましたが、今次労使交渉・労使協議におきまして、ご出席のみなさま方がそれぞれに、労使で誠実、率直かつ真摯な話し合いを重ねられ、誤りのない解決がはかられることを心から期待申し上げまして、本フォーラムの基調講演とさせていただきたいと思います。
ご静聴ありがとうございました。

以上

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