一般社団法人 日本経済団体連合会
Ⅰ.はじめに:生き残りをかけた「科学技術立国」
人類の歴史は、科学技術の発展とともにあった。様々な制約の中で生きる存在が、道具を生み出し、自然から法則を見出し、新たな知を獲得し、文明を発展させ、科学技術を通じて自らの可能性を大きく切り拓いてきた歩みでもある。科学技術は、飢餓や病、距離や時間といった制約を乗り越える力となり、人類をより自由に、より豊かに、より尊厳のある生を営むことを可能にしたのである。
他方、まさにギリシャ神話における「プロメテウスの火」が象徴するとおり、科学技術は常に恩恵のみをもたらしてきたわけではない。火が人を温めると同時に、使い方を誤れば全てを焼き尽くす。歴史を振り返れば、科学技術は戦争被害の拡大、格差の助長、情報の混乱、安全保障上の脅威等の社会的リスクを深刻化させた。さらには人間とは本来何をなすべき存在かという、人間の尊厳すら揺るがすまでに至っている。だからこそ、科学技術のもつ光と影の両面を正しく認識し、人間の善性に基づいて、その力を望ましい方向へと導くことができるかがいま問われている。
翻ってわが国は、人口減少・少子高齢化による市場縮小と人手不足に加えて、資源制約や災害リスク等の構造的課題、安全保障上の脅威を抱えている。科学技術はこうした課題の克服と、新たな価値創造の鍵を握る。その科学技術の力を最大限に引き出すためには、研究開発投資によって新たな知や技術を生み出し、社会実装につなげることが不可欠である。これにより企業の収益フロンティアの拡大がもたらされ、さらなる投資が喚起されるとともに、雇用・賃金の増加を通じて消費を活性化し、ひいては財政・社会保障の基盤が強化される。
経団連は、「FUTURE DESIGN 2040」(2024年12月公表)において、将来世代が希望を持ち続けられる公正・公平で持続可能な社会を目指し、それを実現しうる国家像として「科学技術立国」と「貿易・投資立国」を掲げた。さらに、「ダイナミックな経済財政運営」の下で、研究開発投資を含めた官民の投資を拡大することにより、「成長と分配の好循環」を持続させ、分厚い中間層を形成するという道筋を示した。
国際情勢に目を転じると、世界は本来、多様な価値観や文化、歴史の上に成り立っているにもかかわらず、特定の価値観や規範を標準として、全体を「一元化」の方向へ導こうとする力学が目立つようになっている。こうした動向は、むしろ国際社会に対立と分断を招き、国際関係の不透明さと不安定さを増幅させている。このような状況の下で、我々は、単一の価値観や秩序への収斂ではなく、多様な価値観が併存する「多元」「多極」を受容し、それぞれが重層的に共存・補完し合う「価値多層社会」を目指すべきである。これこそが、分断を乗り越え、国際関係の安定と持続可能性をもたらす社会の姿である。
わが国は、いわゆるアジアに位置し、東洋に根差した歴史的・文化的背景を持ちながらも、近代以降、西洋的な様式や制度、価値観を積極的に取り入れ調和させて発展を遂げた稀有な国家である。こうした特質を活かし、「価値多層社会」の構築に向け、わが国が国際社会をリードすべきである。
以上を踏まえれば、「科学技術立国」とは、研究開発投資を起点として、国内においては成長と分配の好循環を生み出して豊かな国民生活と産業競争力の強化を実現するとともに、国際的には一極によることなく国際協調を図り、科学技術の力で価値を創造し、提供し、貢献することで、国際社会から信頼され、必要とされる国たる地位を確保することである。その意味で「科学技術で立国する」ことは決して理想論ではなく、内外構造の変化が一段と深まる中にあって、わが国の存立と繁栄に向けた現実的な戦略であり、必須の道筋である。
こうした認識の下、本提言は「FUTURE DESIGN 2040」で掲げた「科学技術立国」を、その理念から教育、科学研究、技術開発、社会実装、産業競争力強化までを一気通貫で捉え、2040年に向けた「中長期的な国家戦略」として具体化したものであり、経済界が先頭に立ち、これを実現するという矜持を示すものである#1。
Ⅱ.科学技術立国の基本的考え方
2040年に向けた中長期的国家戦略の根底には、以下の三つの基本的考え方を据えるべきである。
1.「投資牽引型」にマインドセットを転換
科学技術立国の起点は、成長投資によるイノベーションの加速である。「科学とビジネスの近接化」が加速し、世界的な研究開発競争が激化する中、わが国は諸外国に伍して研究開発投資を拡大する必要がある。そのため、経済界や政府のみならず、投資家や国民を含め国全体で「科学技術立国が必須の道筋」との認識を広く共有し、「投資牽引型経済#2」へのマインドセット転換を図る(図表1)。
経済界は、「自助努力」を基軸に成長の源泉である研究開発投資、設備投資、人的投資を拡大していく。とりわけ、研究開発投資については「ビジネスの源流」として捉え、基礎研究から社会実装まで果敢に投資を拡大することを通じ、官民合わせた研究開発投資を「他国並み」ではなく、「世界トップ水準」に引き上げていく。
国全体のマインドセット転換は、研究開発投資の拡大にとどまらず、初等・中等・高等教育改革、人材育成、規制改革、デュアルユース技術開発など、次章で述べるあらゆる分野での改革を果敢に実行するうえでの前提となる。
2.「科学技術」「産業・社会」「思想・哲学」の総合設計
科学技術立国の実現には、研究開発投資すなわち、「科学技術」への投資拡大に加えて、その成果の受け皿となる「産業・社会」の改革、さらにはそれらを支える「思想・哲学」のあり方まで含めた総合設計が不可欠である(図表2)。
研究開発投資を拡大しても、その成果を価値化できなければ、わが国の「技術で勝ってビジネスで負ける」状況は改善されない。したがって、研究開発成果の迅速な社会実装を図ることが不可欠である。
また、近年の生成AIやAIエージェント、フィジカルAIといったAI技術の飛躍的な発展は、知的活動を含む人間の多様な営みが代替される日が、遠くない将来に訪れることを予見させ、科学の世界でもAIの利活用(AI for Science)が急速に進んでいる。いまや科学は、前例のない規模とスピードと深さで社会に変革を迫ると同時に、「人間と技術の関係性」、さらには「人間とは何を為すべき存在か」といった根源的な問いを我々に突き付けている。この問いに向き合う際に、西洋の「人間中心」の思想・哲学だけではなく、わが国の価値貢献が求められる。
3.科学研究と技術開発の違いを産学官に浸透
「科学技術」への投資を量的に拡大するのと同時に、その「質」を向上させることも不可欠である。その際に重要な視点は、「科学研究」と「技術開発」は、その目的や必要とされるマネジメントなど、モダリティが異なるということである(図表3)。
「科学研究」は、新たな現象や原理の発見に向けた研究者個人の知的好奇心に基づく不確実性の高い探索的活動を指す。これに対して、「技術開発」は、具体的用途を想定して目標を定め、重点的な投資により価値を創出することを目指す活動である。さらに言えば、「技術開発」に続くフェーズである「社会実装」は、エンジニアリングやマーケティング、規制対応、国際標準化などのルール形成を通じて、社会への価値提供を可能とする活動である。
これらの違いを産学官の関係者が十分に踏まえたうえで、「科学研究」については、長期的視点と研究者の自律性を尊重した支援が求められる。また、「技術開発」については、わが国が国際的にリードすべき領域を見極め、社会実装を見据えた目標設定や進捗管理の下、戦略的に人員と予算を集中投下することが必要である。このように、政策立案や取り組みの評価等における質的転換を図りつつ、投資を拡大することが不可欠である。
Ⅲ.科学技術立国実現に必要な改革
前章に示した三つの基本的考え方を踏まえ、本章では「科学技術」「産業・社会」「思想・哲学」の三つの柱に沿って、科学技術立国の実現に必要な改革を提言する。
1.科学技術:持続的に研究開発成果を創出する基盤の強化
科学技術立国を実現するための「科学技術」「産業・社会」「思想・哲学」のトライアングルの原点となるのは、世界に冠たる研究力である。新たな研究開発成果の持続的な創出に向けて、資金・人材・組織の面から基盤の強化が求められる。
(1)官民研究開発投資を世界トップ水準へと拡大
わが国の官民合わせた研究開発投資のうち企業によるものは8割を占めており、この割合は、G7諸国や中国、韓国に比べても高い水準にある#3。しかしながら、研究開発投資の対GDP比(名目)で見れば、わが国は世界トップ水準にあるとは言い難く、国際的な技術覇権競争が激化する中、少なくとも量的な競争力の確保が不可欠である。
こうした認識の下、2026年3月に閣議決定された「第7期科学技術・イノベーション基本計画」の研究開発投資目標#4の達成に向けて、持続的かつ着実に投資を拡充していくことが求められる。これを通じて、官民合わせた研究開発投資を「対GDP比5%」という世界トップ水準#5に引き上げ、2040年には「年間投資50兆円」を目指すべきである(図表4#6)。
①企業による積極投資
前述のとおり、経済界は、長らく続いたデフレ経済下での「コストカット型」経営から「投資牽引型」経営へ転換し、持続的な成長に向けて、研究開発投資をはじめ、中長期的な価値創造に資する投資を一層積極的に進めていく決意である。その一環として、産学連携や、いわゆる中央研究所#7の再興などを通じ、基礎研究(図表5)にも果敢に投資していく#8。さらに投資牽引型への転換を単なる資金配分の見直しに留めるのではなく、自社の存在意義と中長期的な成長の方向性を経済的価値と社会的価値の両面から価値創造ストーリーとして明示し、投資家の理解を求めていく#9。
②政府による基礎研究への投資
他方、企業がリスクをとることが困難な領域では、政府の「呼び水」としての役割が欠かせない。とりわけ、研究者の好奇心に基づく、自由探索型の基礎研究(図表5)については、政府による安定的かつ長期的視点による投資が必要である。そこで、大学改革を前提とした運営費交付金の拡充や科学研究費助成事業(以下、科研費)の予算の早期倍増等が必須である。加えて、限りあるリソースを、国際卓越研究大学や地域中核・特色ある研究大学強化促進事業(J-PEAKS)など、伸ばすべき大学に傾斜配分すべきである。
③民間資金の活用
大学や国立研究開発法人(以下、国研)等のアカデミアは、政府予算以外の財源を多様化することで、より裾野の広い研究が可能となる。財源多様化については、潤沢な基金を擁する民間財団がアカデミアの科学研究を下支えしている諸外国の実態は参考となる。そこで、わが国においても民間資金を科学研究に循環させるべく、個人や企業からの寄付#10の拡大や民間財団の設立、エンダウメント#11など、科学研究へのサポートを進めやすい環境整備が必要である。
(2)価値創造を担う研究者・技術者の人材の厚みと多様性を拡大
拡大した投資の効果を最大化するためには、投資の受け皿である研究者や技術者などの価値創造人材の厚みと多様性を増していくことが必須である。
足下でも人材不足が課題となっているが、2040年には理系人材#12が約120万人不足、現場人材#13が約260万人不足するなど、さらなる深刻化が指摘されている#14。こうした人材は、国際的にも争奪戦が生じている。住居、医療、教育などの生活インフラの整備、国際的な賃金水準との乖離の解消をはじめ、従来にも増して強力かつ魅力的な制度や処遇により獲得・育成を進めることが求められる。
① 教育:研究者・技術者の抜本的拡充
前述の実態を踏まえ、研究者や技術者の拡充に向けた抜本的な取り組みが必要である。なお、教育はその効果が顕在化するまでに一定の期間を要するため、いち早く着手することが不可欠である。
高等教育段階については、分野横断による探究力・創造性の涵養を重視し、人文・社会科学系と自然科学系双方の学問の蓄積を基盤としながら、人材のミスマッチ状況等を踏まえ、理系学部への転換や既存の理系学部の定員増を促進するための支援策を強化すべきである。
また、工学、農学、薬学といった産業に近い学部において、カリキュラムが旧態依然としており、経済界の実情やニーズに十分対応できていないとの指摘がある#15。そこで、わが国においてとりわけ重要な産業分野を対象に、関係省庁の参画の下、産業別に産学官による枠組みを整備し、求められるスキルや専門性を体系的に可視化するとともに、それを高等教育へ機動的に反映させる仕組みを構築すべきである#16。
さらに、技術者の厚みを増すべく策を講ずる必要がある。スイスには政府と産業界が資金やカリキュラムの面で密接に協力する職業人材育成モデルがある。この育成モデルは、歴史的な実績があり社会的にも広く受容されており、スイスでは中学卒業後、約7割の生徒が職業教育訓練制度(VET)を活用し、訓練校に進学している#17。中長期的には、スイスのような職業人材育成モデルをわが国にも構築し、より多くの生徒が高等専門学校(以下、高専)等へ進学する環境を整備すべきである。当面は、高専の新設や再編、定員増に向けた支援策#18を強化し、大学においては、高専からの学部編入における定員増といった取り組みを強化すべきである。併せて、個々の学校単位の教育に留まらず、大学・高専・地方自治体・業界団体など複数主体が連携し、分野ごとに高度かつ実践的な人材育成を行う「ナショナルトレーニングセンター(仮称)」の整備も検討すべきである#19。同センターは、わが国の産業政策とも連動させ、学生のみならず社会人も対象としたリカレント教育機能を併せ持つことで、成長分野への円滑な労働移動や人材育成の中核拠点となることが期待される。
初等教育段階については、科学に対する興味・関心を有する児童・生徒の「好奇心」や「探究心」をより一層育み、将来の研究者・技術者へとつながる基盤を形成できるよう、教育内容・環境の転換を進めるべきである。科学への関心の有無は、小学校・中学校段階における経験に大きく左右されるという声があるが、現在の初等教育は、多様性や好奇心、探究心を涵養し、未来の研究者・技術者を育成する環境として十分に機能しているとは言い難い。将来的にAIが社会のあらゆる領域に実装されることを前提にすれば、知識の習得や定型的な情報処理等、AIに代替されやすい能力の習得が中心となっている現行の教育制度では不十分である。そこで、自ら問いを立てる力、未知の課題を発見する力、他者と協働する力等を育成し、AIを活用して新たな価値を生み出す素地を身に付けることが必要である。そのうえで、教育制度については、そのあり方を「失敗を許容し挑戦を評価する教育」に見直すべきである。その際、小学校・中学校段階から企業の関与を含めた新たな教育システムを構築すべきである#20。
そのうえで、中等教育段階については、文理融合による探究力・創造性の涵養を目的としたSTEAM教育を強化し、高度な探究活動を通じた理数系人材を育成するために、スーパーサイエンスハイスクール(SSH)を拡充すべきである。
② 若手研究者の処遇改善
前述の人材育成を進めるうえでは、キャリア・出口の魅力の向上が不可欠である。現状、アカデミアの研究者は、若手を中心に賃金などの処遇の水準や研究時間の確保等が不十分と言われている。こうした状況を是正することが必須であり、ポストドクター、博士課程の学生に対する支援の拡充、例えば「特別研究員」制度における研究奨励金を物価に合わせた増額ではなく倍増することや、若手研究者の研究費を拡充する等、踏み込んだ取り組みが求められる#21。
さらに、研究者が研究に専念できる環境を整備すべく、研究開発マネジメント人材や技術職員等の高度専門人材の育成も併せて行うべきである。
企業においては、博士号の価値向上への取り組みや、通年採用、学部卒・修士卒とは一線を画した処遇制度の構築等を早急に実施し、対外発信を図る必要がある#22。
③ 国境を越えた人材流動化・循環の加速
国内外の人材交流・流動を加速させることは、世界とのコネクションの構築のみならず、わが国の研究レベルの向上や海外からの資金調達拡大、社会実装の加速等、わが国のイノベーション・エコシステムに与える効果は極めて高い。そのためには第一に世界トップレベルの頭脳をわが国に結集させることが重要である。政府は「J-RISE Initiative」の下で世界トップレベルの頭脳の取り込みを進めており、成果が出始めている#23。彼らがわが国を選んだ本質的な理由を明らかにし、政策を総動員してさらなる招へいを図るべきである。
また、若い段階から世界に出て、交流し様々な価値観を知り、交友を深めることは、人材育成に加え、交友を通じたわが国への人材呼び込み等、様々な波及効果を生み出すことは自明である。他方、わが国は全体としてパスポートの所有率も低く、若者については海外への留学意識も低いというデータがある#24。少なくとも後述する研究大学においては、留学・渡航支援制度をいっそう充実させ、学生・研究者の全員に海外留学・派遣を義務付けるなどの取り組みにより、目線をグローバルレベルへ引き上げることが求められる。
(3)大学改革の加速
大学進学者数は、62.7万人(2021年)から46.0万人(2040年)へと約20年で30%程減少することが予想されている#25。大学においては、こうした長期トレンドを踏まえた改革が不可欠である。
① 再編・統廃合の加速
急速な少子化、都市部への一極集中による地域社会の衰退が進行する中、現在の国公私立で800校を超える大学を、そのままの形で維持することは現実的ではない。「FUTURE DESIGN 2040」で提唱した「新たな道州圏域構想#26」の考えを踏まえつつ、人口動態に加え、わが国の産業基盤や医療等のインフラを支える人材を育成する観点から、大学の再編・統廃合を進め、わが国全体として大学配置の最適化を図ることが不可欠である。また、経営ガバナンスの強化、業績評価に基づく柔軟な処遇制度の実施や若手教員の比率拡大をはじめとした人事マネジメント改革を強力に推進することが求められる。
また、大学は、高い研究力を背景として、産業競争力の強化にも貢献することが期待される。そこで、国際卓越研究大学や地域中核・特色ある研究大学強化促進事業(J-PEAKS)採択大学と並んで、新たに特定の大学を「研究大学」として指定する制度を整備する際には、「研究大学」は、わが国の成長のエンジンとして、世界的に秀でた研究力を有し、かつ、イノベーションの中核として産業競争力強化に貢献することが求められる。とりわけ地方においては、地域産業と結びつき、産業クラスターの形成を通じて、地方経済の強靭化に資することが期待される。
こうした観点から、「研究大学」の指定に当たっては、「ある特定の分野・領域を学ぶ・研究するならこの大学」と世界に認知されるような、いわば「ビジブル」な得意領域を有することが不可欠である。さらに、産業・地域への波及効果を重視して審査を行うとともに、指定後も継続的に評価・検証を行い、一定の基準に満たない場合には、指定を解除する仕組みを設けるべきである#27。そのうえで、政府は「研究大学」に対して、研究開発や社会実装を中長期的に支援する制度を設けるべきである。
② OISTの成功モデルの横展開
2011年開学の沖縄科学技術大学院大学(OIST)は、世界トップクラスの研究人材を招へいし、研究環境整備を徹底することで、短期間に世界水準の研究力を確立した。2019年のNature Index(正規化指標)では日本国内トップの世界9位、さらに所属研究者がノーベル生理学・医学賞を受賞するなどの成果をあげている。
このようなOISTの成功を特殊事例として扱うのではなく、OISTの国内他大学との制度設計の違い、具体的には、グローバル基準の人事・採用制度、研究者や研究テーマの多様性、研究の自由と責任を明確にするPI制度#28、研究者が研究に専念できる支援体制などを成功要因として抽出し、国内の研究大学へと横展開することが重要である。こうした取り組みを通じて、第2・第3のOISTとも呼ぶべき、世界トップレベルの研究拠点を国内に複数創出するモメンタムを形成すべきである。
なお、育成・招へいした優秀な研究人材が、卒業・修了後に日本国内で活躍し続ける、あるいは海外経験を経て再び日本に還流する流れを生み出すべく、前述のとおり、国際水準の研究環境・処遇、魅力的な職場、生活インフラ等の整備も進めるべきである。
(4)国研の役割再定義
国研は最先端の研究開発、新たな産業創出、標準の策定等、様々な機能を担っている。経団連では、国研について、技術の目利きと産学の橋渡し役として、その役割を再定義する必要性を提言したところである#29。こうした方向性を具体化する観点から以下の取り組みを進めるべきである。
①国研ごとのミッションに応じたKPIの重点化
国研はそれぞれ異なるミッションを有しており、これを踏まえて評価されているが、一層メリハリをつけたKPIの重みづけがなされるべきである。例えば、理化学研究所であれば質の高い論文の割合、産業技術総合研究所であれば産学連携やスタートアップ創出といった社会実装の実績などを重視すべきである。
②セキュアな産学連携プラットフォームの機能の強化
現下の国際情勢を踏まえると、研究セキュリティ・インテグリティを確保するとともに、社会実装に向けた技術開発を進める体制の構築が急務である。国研は、大学や企業の研究者に対してセキュアな産学連携のプラットフォームを提供し、その存在価値・存在意義を高めていくべきである。併せて、産学共同研究を戦略的に推進する観点から、外部と連携しながら、様々な研究を横断的に統合し一体的に推進できる統合型研究マネジメント人材の育成も期待したい。なお、セキュアな研究環境については、国研に限るものではなく、例えば、ナノテラスをはじめとする大型研究施設等においても、ハードとソフトの両面で遮断可能なファイアウォールの設置やデータの安全性確保等も必要である。③ 社会実装を担うファンディングエージェンシーの強化
将来の成長産業の創出のためには、研究開発に対する政府による大規模かつ安定的な支援が不可欠であり、ファンディングエージェンシー(以下、FA)の果たす役割は大きい。
社会実装を担う中核的FAの一つに新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)があり、新エネルギーや産業技術分野における研究開発支援を行っている。直近のホルムズ海峡情勢も相まって、安価で安定的なエネルギー供給の確保に向け、NEDOの重要性はますます高まっている。エネルギー安全保障の確保においては、例えば、フュージョンエネルギーや次世代革新炉が期待されているが、現行のNEDO法#30では、原子力に関する支援を行い得ず、十分な支援ができていない#31。そこで、NEDO法を早期に改正し、フュージョンエネルギーや次世代革新炉の研究へとファンディングの対象を拡大し、原子力についての既存技術・先端技術の双方の研究開発と社会実装を加速させるべきである。
さらに、研究成果を円滑に社会実装するためには、政府の支援に加え、事業化の観点による目利き・プロジェクト管理が不可欠となる。社会実装を担うFAは、民間人材を積極的に登用するとともに、民間人材がプロジェクトの立案や採択者選定などの重要な意思決定に関与できるよう、改革に早急に着手すべきである。
(5)科学技術政策の推進体制の再構築
近年、巨大テック企業を中心に、基礎研究の段階から巨額の資金を投じ、従来にないスピードでビジネスへと展開する「科学とビジネスの近接化」が進展している(図表6)。こうした国際的潮流の下で、科学技術・イノベーションのあり方そのものが大きく変容しているが、わが国における科学技術政策の執行体制を見ると、その変化に十分対応できているとは言い難い。省庁縦割り構造ゆえに類似施策が各省庁で重複して講じられる一方、連携に乏しく、基礎研究から社会実装までを見据えた一体的かつ機動的な政策遂行が妨げられている。こうした構造的課題を放置したままでは、研究成果を迅速に社会実装へと結びつけ、国際競争の中で勝ち抜くことは困難と言わざるを得ない。
そこで、2040年を見据え、基礎研究から社会実装まで切れ目なく、政策立案や資金配分、実行・評価などの科学技術政策を推進できる体制を構築すべきである。その具体策の一つとして、英国の科学・イノベーション・技術省(DSIT)等を参考とし、「科学技術省」の設立を検討することが考えられる。その際、各省庁に紐づいているFAやシンクタンクを科学技術省の下に再編・統合することも一案である#32。
さらに、科学技術省は、国内向けの政策推進にとどまることなく、科学技術外交や国際的な人的ネットワークの強化、「Horizon Europe」との連携のような友好国・地域との協創、国際標準化などの国際ルール形成を主導する役割を果たすべきである。
2.産業・社会:研究開発成果を価値化する仕組みの構築
科学技術立国の実現に向けては、大学、国研、企業等で生み出された研究開発成果を迅速かつ継続的に社会実装につなげ、経済的・社会的価値へ転換していく仕組みの構築が不可欠である。本章では人材流動化、ディープテック・スタートアップ、デュアルユース技術開発を取り上げる。また研究開発成果を基に生み出された事業・産業が競争力を獲得する前提として、中小企業の生産性向上、グローバル化に適した競争政策などの環境整備が求められる。
(1)「死の谷」を超える人材流動化
研究開発成果の社会実装に向けて、「死の谷」#33を越える鍵は、高い人材流動性である。現状、産学間において十分に人材流動が行われているとは言い難いが#34、見方を変えれば、人材流動性の拡大余地が極めて大きいとも言える。
そこで、企業や大学における兼業・副業、クロスアポイントメントを、制度・慣行両面の制約を解消することにより促進すべきである。クロスアポイントメントについては、雇用契約の煩雑さ、機密保持や知財管理等の課題が指摘されているため、早急な対応が必要である#35。大学や国研は、経済界から研究者や事業戦略・知財戦略人材、経営人材を呼び込むべく、報酬・処遇を経済界水準に引き上げることも求められる#36。また、経済界も、自らの人材の多様性を高めイノベーション力強化につなげるべく、積極的に大学や国研、さらにスタートアップの人材を受け入れることが重要である。
このように単なる人材交流に留まらず、人材が交じり合い、それぞれの慣習や価値観を認め合いながら、新たな価値を生む「産学融合」を進めていく視点が重要である。
(2)スタートアップ振興
スタートアップは新たな技術や知を機動的に事業化し、社会課題の解決や新たな産業の創出を担う存在である。とりわけディープテック・スタートアップは、研究成果の価値化を進める上で、中核的な役割を果たす。このことから科学技術立国にスタートアップは不可欠の存在である。
そこで、アカデミアに眠るシーズ発掘の強化、防衛調達を含めた公共調達の活性化、海外のトップティアベンチャーキャピタル誘致による資金供給力の拡大などを通じ、スタートアップ育成5か年計画(2022年11月策定)の強化を図るべきである#37。
さらに、現行計画の成果と課題を踏まえた「第二次5か年計画(仮称)」を策定し、政府の継続的なコミットメントの下で政策の強化・機動的見直しを図るべきである。その際、資金と市場の両面でグローバルに戦えるスタートアップの創出、および、官需をドライバーとした成長の後押しを戦略的に推進すべきである#38。
加えて、大企業もまた、スタートアップが研究成果の価値化を支える重要な担い手であることを認識し、スタートアップとの共同研究や調達、販路の提供、出資・M&A等を通じて研究成果を社会実装へと結び付けていくとともに、カーブアウト、さらには副業・兼業による人材の流動化を図り、人材・知・資金が循環するエコシステム形成を加速していくことが求められる。
(3)防衛技術と民生技術の好循環
世界的に防衛分野に係る研究開発や調達は、科学技術の発展において重要な役割を果たしてきた。インターネットやGPS、半導体など、現代の経済・社会に不可欠な技術の開発や量産化の実現にも大きく貢献している。
現下の安全保障環境の急変を踏まえて、主要国は安全保障の確保にとどまらず、産業競争力の強化やイノベーション創出、スタートアップ振興も視野に入れ、デュアルユース技術開発に向けた取り組みを強化している。こうした国際的潮流の下、わが国においても防衛予算の拡充に伴い、同分野の研究開発や調達が進んでいる。
経済界は、まずはリアリズムに立って冷静に現状を認識したうえで、防衛関連投資を科学技術立国の実現に向けた「戦略的手段」のひとつと位置づけるべきである。すなわち、防衛分野で生まれた技術を民生分野に広げるとともに、スタートアップを含めた民生の先端技術も防衛分野に取り入れていくことで、科学研究・技術開発・社会実装のサイクルを着実に回していくことが重要である。
① デュアルユース技術開発の推進
このような考えの下、わが国の防衛関連予算の一層の拡充に加え、防衛分野と民生分野の間の技術・人材の行き来、実証・調達を一気通貫で推進することが求められる。
防衛分野への参画に際しては、企業、大学、国研、スタートアップ等、様々な主体が安心してデュアルユース技術開発や防衛調達に参画できるよう、関係省庁が連携し、機微情報の取り扱い基準の明確化、オフキャンパスを含めたセキュアな研究開発環境の整備を進めるべきである。スタートアップについては、政府において、スタートアップの技術を迅速に導入するための調達スキーム「ファストパス調達」が整備されることを歓迎する。そのうえで、ユーザーのニーズを踏まえ、真にスタートアップ・フレンドリーな制度とすることが肝要である。
なお、これらの主体が、国内外で意図せざる誤解やそれに基づく風評、いわゆるレピュテーションリスクを過度に負うことがないよう、政府が防衛関連投資やデュアルユース技術開発の必要性・意義について、社会に対する説明と発信を主導し、理解醸成を図ることが不可欠である。
② 将来需要創出に向けた政策の転換
宇宙分野においては、これまでわが国では平和利用の理念の下、学術的な研究開発が中心的に行われてきた。他方、近年は、宇宙分野においても事業化を見据えた動きが世界的に加速しており、2040年には市場規模は1兆ドル(約150兆円)に達すると予想されている#39。こうした中、研究開発の成果を持続的なビジネスにつなげ、民間投資を呼び込んでいく観点から、わが国の宇宙政策も研究開発中心から、需要創出と社会実装を重視する方向へと転換する必要がある。
宇宙航空研究開発機構(以下、JAXA)では、既に、宇宙イノベーションパートナーシップ(J-SPARC)を含むJAXAスタートアップ支援制度や事業化・社会実装に向けた取り組みが行われている#40。こうした取り組みを一層強化するとともに、将来需要の創出と民間投資の拡大をさらに加速するため、射場や試験設備等のインフラについて、商業ベースでの打上げ需要の拡大を見据えて増強のうえ、スタートアップを含む民間による活用を促進すべきである。
併せて、JAXAの組織・ガバナンスのあり方についても見直しを検討すべきである。その際、公的ミッションを確実に担保しつつ、より機動的な資金調達、長期契約、事業化を可能とする制度の整備が重要であり、その選択肢の一つとして公社化が考えられる。公社化により、JAXAは、公社債の発行等を通じた民間資金の調達が可能となる。加えて、公的関与の下で長期的・安定的な需要が示されることにより、企業においては、需要の予見性が高まり、研究開発投資の回収可能性が担保される。
(4)産業競争力強化のための環境整備
①「ロボット(AI+)」による生産性向上
人口減少・少子高齢化に伴う構造的な人手不足や現場技能の継承難、老朽インフラ対応といった制約が強まる中、生み出した事業・産業の競争力を確保・強化し、持続的な付加価値創出へと結びつけるためには、生産性の抜本的向上が不可欠である。
経団連は、その鍵がAIを搭載したロボット、すなわち「ロボット(AI+)」であるとしている#41。今後は、大企業から中小企業まで「ロボット(AI+)」の導入・実装を進め、現場で培われた知見や技能等の現場知を資産化しながら、製造業のみならず、物流・建設・介護・災害対応等へと展開することが重要である。これにより、コスト競争力と品質・安全を同時に確保し、サプライチェーン全体の強靭化やチョークポイントの把握・克服も進めながら、国内基盤の強靭化と国際展開を図るべきである。
このような生産性向上を後押しする政府の役割も重要であり、ロボット(AI+)等の実装が進む実情を踏まえ、人間による対応を前提とした既存の規制・制度を不断に見直すとともに、政府自身が早期段階から企業と伴走し、実証から標準化、調達、禁止事項を明確にするネガティブリスト方式を基本とした「ガードレール型」ルールをはじめとする制度整備までを一体的に進める協力体制を構築すべきである。また、中小企業政策については、単なる企業存続支援に留まらず、大胆な新陳代謝と成長を促す政策が求められる。
② グローバル競争に対応する競争政策の展開
わが国の成長を支える多くの企業は、グローバルに事業を展開しており、とりわけ製造業においては、大企業を中心に海外売上比率が非常に高い状況にある#42。すなわち、こうした企業における活動の実態は、国内市場のみにとどまらず世界市場に展開しており、米国の巨大テック企業をはじめとする大規模な資本を有するグローバル企業との競争に日々さらされている。研究開発投資の成果を価値化して更なる投資へと循環させるためにも、グローバルな視点での経営戦略が欠かせない。このような状況の下、わが国企業が、海外企業との競争が厳しい特定の分野において持続的に競争力を確保するためには、複数の企業が資本・技術・人材・販路等の経営資源を機動的に結集できる競争環境の整備が重要となる。
そこで、独占禁止法の一般集中規制および企業結合規制のいずれについても、科学技術政策や経済安全保障政策等との整合性にも留意しながら、企業が長期的な観点からグローバルな競争力を実現する投資にあたっての予見可能性を高め、機動的かつ円滑な資源配分を可能とするような運用のあり方が重要である#43。当面の対応としては、競争政策の運用のあり方に関する検討と並行して、技術研究組合制度(CIP)を複数企業による連携を促進する枠組みとして一層活用していくことが考えられる。
一般集中規制については、「事業支配力の過度の集中」の判断基準について、グローバル市場における競争関係を考慮して、関係政策との整合性を確保していくことが期待される。企業結合規制については、市場の地理的範囲について、国内市場に限定されるものではないことを前提としながら、国境を越えた評価のあり方について、グローバルな競争環境の実態を踏まえた運用がなされていることが求められる。加えて、不可欠物資の安定供給の観点なども踏まえ、公平な競争環境の整備と企業の国際競争力の確保の両立を実現し、広く社会全体に利益が及ぶ総合的な観点から適切なあり方の検討が行われることを期待する。
3.思想・哲学:技術が突き付ける人間への問い
先端技術、もっぱらAI技術においては米国・中国が圧倒的に世界をリードしていることは厳然たる事実であるが、人口減少や人手不足、資源制約等の構造的課題を抱えるわが国にとって、AIはこうした課題を克服する大きなポテンシャルを秘めており、AIを産業・社会の各領域で積極的に実装し、生産性向上や新たな価値創造につなげていくことが急務である。
他方、前述のとおり、AIをはじめとする先端技術は、我々に様々な問いを投げかけている。かねて人間と先端技術との関係については、倫理的・法的・社会的課題(ELSI)#44の観点から議論されてきた。しかしながら、生成AIやAIエージェント、フィジカルAIといった近年のAI技術は、単に人間の活動を支援するにとどまらず、人間の判断や行為そのものを技術的には代替・代理し得る点で、従来とは異なる次元の課題を提起している。すなわち、これまで人間が見出してきた「発見の喜び」や「働きがい」を今後どのように位置づけるのかなど、個人の尊厳や自律性、主権、さらに人間固有の役割にどのような影響を及ぼすのかが問われている(図表7)。
図表7:技術が突き付ける人間への問いの具体例
ロボット(AI+)×製造(働く意味):工場の無人化を進めることは技術的に可能であり、生産性向上に資する一方、人が工場で何を担うのか、何を働きがいとするか等が問われうる。労働者としての幸福や働く意味、地域コミュニティとの関係と生産性をどう両立するか。
AI×雇用(人材の活躍):AI活用は、適材適所の実現や業務効率化を通じ、生産性向上と新たな価値創造に資する可能性を有する。他方で、その活用にあたっては、データや評価指標の偏りによる採用・配置・評価における不当な差別・排除の防止や雇用機会の喪失、技能形成に与える影響等への配慮が問われる。
AI×教育(学びの個別最適と思考の弱体化):生成AIにより学習の個別最適化や到達支援が進む一方、発想の画一化や批判的思考力の低下を招く懸念がある。学習効率と人間が自ら考える力の強化をどう両立するか。
AI×介護・医療(尊厳・同意):見守りAI、介護ロボット、AI診断等の普及に伴い、本人の尊厳や同意、意思決定支援のあり方や、事故や誤判断が生じた場合の責任分界(現場/医療機関/メーカー/アルゴリズム提供者等)が問われる。
バイオ×遺伝子改変(病原体設計・機能獲得の容易化):ワクチン開発・創薬・産業応用を加速し得る一方、CRISPR-Cas9#45等の普及により遺伝子改変が容易化し、研究のオープン性が悪用(バイオセキュリティ)リスクを高めるジレンマがある。特にヒト胚への応用やウイルス等の機能獲得研究については、社会的不安や事故・悪用への懸念を踏まえ、法的拘束力を伴うルールのあり方を検討すべきである。規制による研究停滞とリスク抑制のバランスを踏まえた制度設計が問われる。
(1)思想・哲学の不可欠性
こうした問いに向き合うに当たって重要となるのが、人間が何を価値あるものとみなし、いかなる未来を志向するかを指し示す「思想・哲学」である。「科学技術」が、「産業・社会」の中で何を効率化し、何を代替し、何を守るべきかという人間による選択そのものに深くかかわっている以上、科学技術の進展のあり方と社会的受容のあり方を一体として議論することが、今後ますます不可欠となる。この議論においては、「人間が技術を用いる」「技術は人間の道具である」といった従来の人間中心の一方向的な認識から、「人間とAIはじめ技術が相互に作用し合い、その関係自体が絶えず組み替えられていく」という新たな双方向的な人間観・技術観への転換も求められよう。
このように、「人間と技術の関係」について不断に議論を重ね、その認識を更新し続けることが重要である。また、技術の進展に伴う不透明な未来に対して、先が見えないからこそ、変化を謙虚に受け止め、対応できる力を養っていくことが求められる。
「思想・哲学」は科学技術の進歩に人間にとっての「意味」と「方向性」を与えるものであり、科学技術立国の土台として不可欠な基盤である。
(2)思想・哲学を支える基盤の強化
本章冒頭に示した問いの重みは、「科学とビジネスの近接化」の進行に伴って「科学技術」の発展および「産業・社会」の変容が加速度的に進むことから、一層高まっていくことは間違いない。
こうした時代においては、前項の「思想・哲学」に加えて、人間や社会を多面的にとらえる人文科学や社会科学など自然科学以外の学問の蓄積がますます重要となる。
そこで、大学や研究機関における人文・社会科学研究への予算を継続的に拡充し、短期的な成果のみに回収されない形で知の蓄積を支える必要がある。企業においても、経営層を中心にこうした知見を共有し、研究開発からルール形成などの社会実装に至るまで、自社の活動を捉え直す体制を構築することが望ましい#46。併せて、初等・中等教育では人間と技術の関わりへの関心を喚起するとともに、高等教育および社会人教育においてはリベラルアーツ教育を強化することが重要である。
さらに、こうした知の蓄積は、情報操作や格差拡大、人権侵害等の科学技術の負の側面を抑制するためにも不可欠である。したがって、教育・研究・企業実務、政策立案等の各層において人間や社会に対する深い洞察を組み込み、技術の方向付けそのものに反映させる制度的基盤を構築することが望ましい。
(3)日本の強み「ソフトパワー」の活用
こうして培われた思想・哲学や、人間や社会に対する知見は、技術が人類に突きつける課題への対応に不可欠であるとともに、科学技術の価値や目指すべき社会像を国際社会に提示し、技術の受容、社会実装、さらには国際的な共感と信頼の醸成を図る上でも重要である。こうした観点からわが国は、優位性を有する技術や製品、サービス等の価値について、思想・哲学に裏打ちされたナラティブを構築し、強みであるデザイン、文化、コンテンツ等のソフトパワー#47と組み合わせて発信していくべきである。こうした発信が、わが国発の技術や製品、サービス等の国際的な受容を高め、その社会実装と信頼の確立を後押しするのみならず、「価値多層社会」の実現に向けたわが国の主導的役割を支えることが期待される。
(4)価値多層社会、科学技術立国の発信・対話
以上を踏まえ、わが国が目指すべき国家像である科学技術立国について「価値多層社会」の概念を軸として対外コミュニケーションを実施し、国内外へ周知し、認知の拡大を図っていく。
その際、未来を担う子どもたちを含む、あらゆる世代における科学技術への理解と関心を高めるために、わが国発の技術や製品、サービス等を展示・体験できる拠点・施設を充実させるべきである#48。このような拠点・施設を最大限活用し、社会全体の科学リテラシー向上につなげるべく、サイエンスコミュニケーターの育成も不可欠である。
また、西洋思想に加えて東洋思想を包含するわが国の希少性、優位性を生かし、世界的なオピニオンリーダーが一堂に会し、思想・哲学界との対話を通じて、世界に向けて未来社会像を構築・発信し、ひいては国際世論やルール形成へと接続させるための場を創設すべきである。その点、京都哲学研究所による京都会議#49の取り組みは極めて有効と言える。
Ⅳ.おわりに:2040年へのロードマップ
科学技術をめぐる国際競争が激化し、産業構造と社会のあり方そのものが大きく変容する岐路にあって、今求められるのは、変化への対応に留まらず、自ら未来を構想し、切り拓いていく国家としての意志である。
本提言では、2040年に向けて目指す国家像としての科学技術立国と、それに至る戦略を示した。その意味において、2026年から2030年の5か年を対象とする「第7期科学技術・イノベーション基本計画」は、2040年を展望するわが国の歩みの出発点として、重要な意義を持つ。経済界は、本提言に掲げた改革を産学官連携の下、着実に実施してまいりたい。
同時に、2040年を見据えれば、科学技術省の設立等の省庁再編、独占禁止法の改正等の抜本的改革は避けては通れない。これらの改革にあたり問われるのは、国家としていかなる未来を選び取るか、いかに「生き残るか」という覚悟そのものであることを強調したい。
経済界は、その先頭に立ち、世界に冠たる科学技術立国の実現に向け、未来への責任と気概を持って挑戦を続けていく。
- 本提言は、第7期科学技術・イノベーション基本計画に向けた提言(「Re:Genesis-科学技術・イノベーションで次代を創る」~次期科学技術・イノベーション基本計画に向けた提言~(2025年4月15日))を踏まえつつ、より長期的な時間軸である2040年をターゲットとしている。
- バブル期に積みあがった「債務」「設備」「雇用」の「3つの過剰」の解消を優先し、防衛的な経営姿勢の下で企業が貯蓄超過主体となっていた状況を転換し、設備投資、研究開発投資、人的投資を積極的に行うことにより、イノベーションを喚起し、潜在成長率の引上げを通じて、中長期的な力強い経済成長を実現する経済。
- 直近の実績:日本78.0%(OECD推計)(2023年)、中国79.3%(2023年)、韓国76.1%(2023年)、米国69.6%(2023年)、ドイツ62.8%(2021年)、イギリス61.9%(2022年)、フランス56.3%(2022年)(出所)NISTEP「科学技術指標2025」
- 2026年度から2030年度の5か年で政府目標60兆円、官民目標180兆円。
- 2023年実績:日本3.42%(OECD推計)、イスラエル6.35%、韓国4.96%、台湾3.98%、米国3.45%、スイス3.30%、ドイツ3.11%(出所)NISTEP「科学技術指標2025」
- 図表4における2026~2030年度、2040年度の名目GDPは、「FUTURE DESIGN 2040」の改革実現ベース。
- 中長期的視点で将来に向けた研究開発を行う企業内研究所のこと。
- 文部科学大臣が指定する研究機関として指定を受け、科研費へ応募することなどが考えられる
- (出所)経団連提言「持続的な成長に向けたコーポレートガバナンスのあり方」(2025年12月16日)
- 日本学術振興会への寄付を通じた若手研究者への顕彰等が考えられる。他方、独立行政法人等への寄附は、「特定公益増進法人」への寄附として一定の税制上の優遇措置が図られているものの、損金算入額には上限が設けられている。そのため、「指定寄付金」制度を活用し、日本学術振興会に対する寄附金のうち「学術研究の助成」や「研究者の養成」を対象とすること等も考えられる。
- 寄附金を主な原資として基金化し、元本を維持しながら長期運用し、その運用益を継続的に教育研究に充てる仕組み。
- 大学・大学院卒業の理系人材。(出所)経産省経済産業政策局 2040年の就業構造推計(改訂版)
- 「現場人材」は、日本職業分類上の生産工程従事者、建設・採掘従事者、サービス職業従事者等の職種を集計。(出所)経産省経済産業政策局 2040年の就業構造推計(改訂版)
- 経産省経済産業政策局 2040年の就業構造推計(改訂版)
- たとえば医薬とりわけ創薬分野に関して、従来の低分子合成に関する講義が多く、現在必要とされている抗体、遺伝子治療、高分子薬等の先端分野についての講義は不十分であるため、企業の即戦力となりづらいとの声がある。
- 原子力分野では、原子力産業基盤を支える人材を確保すべく、ロードマップ策定や産官学によるコンソーシアム設置が進められている。
- (出所)光文社「稼ぐ小国」の戦略
- 大学・高専機能強化新事業(成長分野転換基金)等を想定。
- バイオ分野では、アイルランドのNIBRT(National Institute for Bioprocessing Research & Training)が参考になる。
- 家庭や地域における教育力の変化や、教員による教育の質の担保と現場負担の軽減を両立しながら探究を軸とした教育を実施するには、テクノロジーの積極活用に加え、大学教授や研究者、民間企業の技術者・実務家など外部の専門人材が、授業設計、教材開発、実践指導等により積極的かつ継続的に関与する仕組みの構築が必要。
- 「特別研究員」制度は、優れた研究能力を有する若手研究者が研究に専念できるよう支援する事業。採択されると研究奨励金として博士課程学生(DC)へ月額227,000円が支給、博士号取得者(PD)へ月額362,000円が支給される(令和9年度公募(予定))。他方、民間給与実態統計調査(令和7年度)によると会社規模100人以上における研究員の月額給与は、353,182円(24~28歳)、391,008円(28~32歳)であり、研究奨励金を上回っている。※DCの同年度予算約100億円(採択者約4,000人/採択率20%程度)、PDの令和8年度予算約50億円(採択者約1,000人/採択率25%程度)。
- 経団連と大学との間で、博士人材の育成・活躍促進に向けた議論を行い、具体的な取り組み等を取りまとめた報告書を公表「博士人材に関する産学協議会合 報告書 博士人材が活躍する社会の実現に向けて-目指すべき姿と具体的な取り組み-」(2026年2月10日)。同報告書では、企業が博士人材の活躍を人材戦略の中核に位置付け、そのコミットメントを社内外に発信するとともに、責任や成果に見合った処遇の整備や進学段階からの経済的支援などを通じて、博士人材が安心して挑戦できる環境を整備していくことが示されている。
- 例えば、日本人を含む優秀な海外若手研究者を世界水準の処遇で国際卓越研究大学に準ずる日本トップレベルの大学に受入れ、日本の研究力強化を図るとともに、海外若手研究者の日本への定着を目指す「グローバル卓越人材招へい研究大学強化事業(EXPERT-J)」では、14大学が採択され、34人の海外若手研究者を受け入れ済み(2026年4月17日現在)
- 外務省「旅券統計(令和7年)」によれば、令和7年末時点の有効旅券総数は22,817,001冊。総務省統計局「人口推計」における令和7年9月1日現在の総人口(1億2319万2千人)と単純に比較すると、有効旅券数は総人口の約18.5%。また、内閣府「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査(平成30年度)」では、日本の若者のうち「将来外国留学をしたいと思わない」と回答した割合が53.2%となっている。
- 我が国の「知の総和」向上の未来像~高等教育システムの再構築~(答申)概要中央教育審議会(令和7年2月21日)
- 広域連携推進の手段の一つとして、都道府県より広域のブロックを一つの仮想単位(道州圏域)とし、バーチャルな道州圏域ごとに独自施策を実行する考え方。区割りを明確に示す「道州制」よりも柔軟な道州圏域の下で、広域でのビジョンの策定・実行・多様な主体との連携強化を目指す。政府は同構想の考え方を踏まえ、2025年9月に「広域リージョン連携」を制度化し、多様な主体による都道府県域を超える広域の単位での取り組みに対し、地域未来交付金による財政支援等を実施している。
- 世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)では、WPIミッションを達成した拠点を「WPIアカデミー」として認定している。この仕組みを援用すること等が想定される。
- PI(Principal Investigator)は「研究責任者」を指し、PIが資金や人材を自ら確保し研究室を運営する制度。海外では一般的な形式。これに対して日本の多くの大学では、教授の下に講座単位で准教授はじめ研究者や資金が共有される講座制が採用されている。
- (出所)経団連提言「Re:Genesis-科学技術・イノベーションで次代を創る」~次期科学技術・イノベーション基本計画に向けた提言~(2025年4月15日)
- 国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構法
- NEDO法第15条(業務の範囲)は、「次に掲げる技術(原子力に係るものを除く。)であって、民間の能力を活用することによりその開発の効果的な実施を図ることができるものであり」と規定(同条第1号)。
- 米国とわが国では予算額に大きな違いがあるが、米国国防高等研究計画局(DARPA)のように基礎研究で得られた成果を概念実証、応用研究、技術成熟を通じて実用化・運用移行へとつなぐ研究推進機能とともに、プログラムマネージャーが高い裁量の下で明確な出口を見据えつつ、ハイリスク研究を機動的に推進する仕組みを備えるべきである。
- 新たな技術や製品の開発段階から、それが事業化されるまでの間に直面する人材や資金・組織上の障壁のことをいう。
- 「企業」部門、「大学等」部門はそのほとんどが同部門に流れており、他部門への転入は少ない。(出所)科学技術指標2025 図表2-1-16 部門間における転入研究者の流れ)
- クロスアポイントメント制度については、活用している企業が約36%で、活用する上での課題として、雇用契約・出向契約の整理が煩雑(44.4%)、秘密保持や知財管理の懸念(44.4%)となっている。(出所)経団連 「大学等との産学連携に関するアンケート結果(最終版)」2026年2月17日)
- 企業の20%が大学との給与格差を人材交流上の課題と認識しており、約46%の企業で企業が給与差を全額補填している(出所)経団連 「大学等との産学連携に関するアンケート結果(最終版)」2026年2月17日)
- 経団連提言「育成から飛躍へ:スタートアップ育成5か年計画の先を見据えた基本戦略」(2026年4月14日)
- 同上
- 宇宙政策の最新動向(内閣府宇宙開発戦略推進事務局 2025年5月)
- このほか、宇宙戦略基金の枠組みの下で、民間企業、スタートアップ、大学等による先端技術開発、技術実証、商業化を複数年度にわたり支援する仕組みが整備されている。
- ロボット(AI+)は人を一律に代替するのではなく、人の判断や作業が価値を持つ領域では支援・補完を基本としつつ、人手不足や危険・過酷な作業等においてはロボットによる完全代替も視野に入れ、モノづくりやサービス提供を高度化・自動化させるもので、わが国が強みを発揮しうる分野。(出所)経団連「わが国ロボット(AI+)戦略のあり方に関する提言」(2026年3月17日)
- わが国製造業企業トップ500社の海外売上比率は、2003年は30%程度であったが、2023年には53%(米国44%、EU先進16か国56%)(出所)第1回 グローバル競争力強化のためのCX研究会事務局提出資料(2023年12月11日)
- 独占禁止法の一般集中規制については、市場の地理的範囲については明示されていない中で、「事業支配力の過度の集中」が主に国内の競争関係を基準に判断されているのではないかという指摘もある。また、企業結合規制では、市場の地理的範囲は需要者および供給者の代替性等に基づき個別に確定され、国境を越えて地理的範囲が画定される場合もあるとされているが、国内市場を中心とした検討が行われることが多いのではないかという指摘もある。
- AIやバイオテクノロジーなどの先端技術を社会に導入する際に生じる、倫理的(Ethical)、法的(Legal)、社会的(Social)な課題(Issues)の総称。
- DNAの狙った箇所を切断・改変できるゲノム編集技術のひとつ。2020年のノーベル化学賞受賞の対象となった技術で広範囲で普及している。
- ドイツ・ボン大学の哲学者、マルクス・ガブリエル教授は、企業に最高哲学責任者(CPO:Chief Philosophy Officer)と倫理委員会を置くべきと主張。
- コンテンツIPの世界ランキングにおいて、日本発コンテンツは上位の半数を占めるなど、世界でもプレゼンスを発揮している。(出所)経団連提言「Entertainment Contents ∞ 2024」(2024年10月15日)
- 代表的な施設として、北の丸公園内にある科学技術館が挙げられる。現代から近未来の科学技術や産業技術に関する知識を広く国民に対して普及・啓発する目的で公益財団法人日本科学技術振興財団が設立した施設であり、1964年(昭和39年)4月に開館し、現在再整備の検討が進められている。
- 哲学と社会を橋渡しし、実践的な変革を志向する知的共創の場。国内外の有識者や産業界のトップらがAIの進化を見据え、目指すべき「価値」を考える「第1回京都会議」が2025年9月23-24日の2日間にわたって国立京都国際会館で開催された。





