1.はじめに
Brexitはどこに行ってしまったのだろうか。本年1月末のイギリスのEU離脱を受けて、我々は、2月にはBrexitによるEU・世界経済への影響と今後の推移を議論していた。本年末の移行期間終了後の関係については、現在もEU・イギリス間で交渉が続いている。しかし、2020年5月初頭の現在、Brexitが人々の関心を惹くことはない。それは、言うまでもなく、コロナウイルスによる新型肺炎の世界的流行のためである。今年初めから中国で始まったこの新しい感染症の流行は、世界的なパンデミックを引き起こし、最大の感染者数を抱えるアメリカ以上に、EUは甚大な被害を被り、イタリアを始め、スペイン・フランス・ベルギー・ドイツを中心に、死者の合計は9万5000人を越え(4月25日現在)、各加盟国は3月以降、外出・移動制限措置を取り、コロナとの戦いに言わば全精力を注ぎこんでいる。
Brexitが、加盟国を拡大させてきたEUの歩みを止め、欧州統合に対する見方を変えさせたことは間違いない。しかし、我々「英国のEU離脱とEUの将来展望」研究会による2017年以降の研究成果(報告書「英国のEU離脱とEUの未来―英国は何故EUからの離脱を選択したのか(2018.7)」「Brexit後のEUと世界(2020.8予定)」。21世紀政策研究所のホームページに全文掲載)が示すように、BrexitはEUにとって大きな打撃ではあるが、EUの存在それ自体を揺るがしたわけでは必ずしもない。これに対し、今回のコロナウイルスによる危機(「コロナ危機」)は、EUの存在の危機となるかもしれない。このような問題意識から、本研究会では、緊急連載を開始することとした。
日本では、断片的にしか報じられていないが、コロナ危機は、短期間に、EUにおける経済活動を著しく縮小させただけでなく、ヨーロッパの政治・社会・法律の各側面に甚大な影響を及ぼし、EU・加盟国双方に様々な変化が生じている。例えば、Brexitの推移の中で明らかになった加盟国間・加盟国内の格差は、失業の増大等により一層拡大するのではないかと懸念されている。本連載では、今回を含め7回にわたり、これら各側面を集中的に検討し、事態が日々刻々と変化する中で、可能な限りEUの今後とその国際関係全般への影響を明らかにしようとする。
2.コロナ危機への視点
さて、個々の検討の前提として、コロナ危機へのEUの対応を理解するために、確認しておくべき点がいくつかある。第一は、EUの権限である。どの事項についてもそうであるが、EUは、EU基本条約が与えた権限しか行使できない。そして、コロナウイルスのような伝染病対策は、第一次的には加盟国の権限であり、EUの権限は限定されており、EUの役割は加盟国間の協力促進・政策調整という二次的な役割に止まる(EU運営条約168条)。だからこそ、伝染病対策として越境的な人の移動を制約する権限は、域内市場に一貫して内在している(EU運営条約45条・52条・62条)。したがって、コロナ危機の初期において、EUの存在感が薄かったことは、EUの構造自体から生じている。しかし、そのことはコロナ危機に際してEUの果たすべき役割が小さいことを意味しない。局地的な伝染病と異なり、感染地域がEUのほぼ全域に及ぶ場合は、各国独自の対応には限界がある。加えて、コロナ危機は、加盟国の経済・雇用を著しく毀損し、加盟国国民である多くのEU市民の生活は困難に陥っている。伝染病対策だけでなく、広範な社会的危機を克服するために、EUが、自らの権限を行使して、加盟国とともに、加盟国を支えながら、いかに実効的に対応できるかが問われている。
その点で第二に留意すべきであるのが、EUの目的である。EUは、域内市場による経済統合を目的とするだけではない。EUは、加盟国間の「連帯(solidarity)」により、人々の福利を実現する組織でもある(EU条約3条)。そのため、特にテロ、自然災害・人災の場合、EUはあらゆる手段を動員して加盟国を援助、また加盟国も相互に援助し合うことが予定されている(EU運営条約222条)。コロナ危機により問われているのは、このEUの連帯、すなわちEU加盟国の結束である。欧州統合の過程は、第二次大戦の悲惨な共通体験を基礎に始まった。1950年代のスタートからほぼ70年が経過し、当初のコンセンサスが弱まっていることが2010年代のEUの複合危機の一因であると指摘されるところ、コロナ危機への対応により、EUが、新たなコンセンサス・アイデンティティを作り上げることができるか、それとも国家中心の普通の国際組織に変化していくかが問われていると言っても良い。
3.EUのこれまでの対応と今後
残念ながら、EUの初期対応は、フォンデアライエン欧州委員会委員長が、4月16日の欧州議会でのスピーチでの「当初、イタリアに必要な支援を与えられなかったことに、ヨーロッパ全体として心から謝罪する」との発言が示すように、甚だ不十分なものであり、加盟国の対応も当初は自国優先であった。しかし、フォンデアライエン委員長は謝罪に続き、「自己を守るためにお互いに守り合わねばならないことを理解するのに長くはかからず、ヨーロッパは、今や世界における連帯の中心である」と述べ、医療関係者の派遣、医療機器・医薬品の融通など、加盟国間の協力の実状を誇らしげに紹介した上で、医療物資の共同調達、ワクチン・治療法の共同開発、第三国からの医療物資輸入への関税・付加価値税の免除、コロナ対策・事業者への財政支援(加盟国への支援を含む)、国家援助規制の緩和、加盟国の赤字財政の容認など、EUの様々な取り組みを説明した。そして欧州中央銀行も、様々なプログラムを開始して、企業への資金供給に取り組んでいる。確かに、3月までの時点では、EUの連帯は目に見えなかった。しかし現在、連帯は絵空事ではない。ただし、それがイタリア市民のEUへの信頼を獲得するのに十分であるかは別問題である。
各国での感染がピークを迎え、経済活動の再開が展望され出した今日、今後の中心論点は、コロナ危機により経済的打撃を受けた加盟国への財政的支援である。多数の感染者を出した多くの加盟国の経済はロックダウンにより停止しており、コロナ対策のためにも、その後の経済活動の再開のためにも莫大な資金が必要であるが、単独での資金調達は難しい。問題は、EU・他の加盟国がどのように支援できるかである。当初イタリア・スペインなどは、EUが債券(コロナ債)を発行して資金調達することを主張したが加盟国間で一致が得られなかった。しかし、4月23日、EU加盟国首脳は5400億ユーロにのぼる支援パッケージを確認するとともに、詳細は明確ではないが、被害の大きい加盟国への経済援助のための「復興基金」の創設に合意した。もっとも、復興基金が実際に動き出すには、まだ相当の期間が必要であるように思われる。復興基金は、次期のEU予算と関連するところにつき加盟国の合意がまだ得られていないからである。
4.コロナ危機と国際秩序
より広い文脈で検討すると、コロナ危機がグローバル化の在り方を変えるインパクトを持ちうることは十分あり得る。これまでのヨーロッパ、さらに世界は危機により変容し、世界は「危機前」と「危機後」に区分される可能性すらある。
一方で、コロナ危機により、グローバル化を象徴する大規模な人の越境的移動は、ほとんど止まってしまった。EU加盟国が人の自由移動を著しく制限し、一時的にせよ反EUのポピュリスト政党の主張が実現している。それだけではない。コロナ対策を理由とする、市民生活への国家の介入が、感染を恐れる市民の支持を背景に世界各地で進んでいるが、特にハンガリーは、非常事態法の制定により、全面的な独裁体制を確立し、民主主義・基本的人権・法の支配というEUの拠って立つ基本的価値の侵害がこれまで以上に懸念されている。コロナ危機を契機に、グローバル化は後退し、復権した国家が国益のみを追求する世界秩序が出現すると考える者もいる。しかし他方で、コロナ危機の終息には国際協力が必要であることも判明している。WHOへの批判自体、パンデミックに対する国際機関による実効的な対応への期待を無意識に反映していると考えられる。前述のようにEUも、初動は遅れたが、その後矢継ぎ早に対応策を打ち出しており、単純に、国家ごとに分断された世界に回帰するとも言えない。もっとも、いずれにせよ、公的医療制度の民営化など、市場中心の国内政策は、どこでも一定の変容を迫られるだろう。
以上のような状況に対して、本連載では、まずドイツで在外研究中の中西委員に、外出禁止が続くドイツの状況からEUのコロナ危機への対応を論じて頂く。その後、EU経済に重点を置きながら、政治・社会的背景にも目配りしながら、本研究会委員により順次連載を進めていく。
(5月3日脱稿)
【21世紀政策研究所】