21世紀政策研究所の「高齢者の自立と日本経済」の研究プロジェクトでは、医学、経済学、政治学、法学という分野の研究者が集い、高齢社会の問題を議論している。Interdisciplinary(学際的・学問横断的)ということの実践の一つである。
例示として認知症問題を挙げる。同プロジェクトの研究会ではまず老年医学の専門家から、次に経済学の専門家から金融ジェロントロジー(老年学)との関係、さらにイギリスの契約法の専門家から「脆弱な消費者」についての報告がなされた。議論は、そもそもどのような人間像が高齢社会での基本的な人間像たり得るかに及んだ。だが、高齢社会の先進国であるわが国では、そのような根本的課題に向き合おうとしていない。
例えば、2013年、ロンドンで「G8認知症サミット」が開催された。背景には、かつて社会福祉国家たる存在を誇っていたイギリスでも、中核をなす健康保険制度(National Health Service)が危機に瀕していることがある。それを維持するための対応策として、アルツハイマー病への対応が掲げられる。イギリスでの患者数は、21年には100万人を超えるという。ところが、10年時点でがん研究に5億ポンド以上を支出しているのに対し、アルツハイマー病にはわずか2660万ポンドしか公的支出がない。そこで、認知症の予防と治療のための研究を早急に促進せよとの声が上がったのである。
この話は、日本にこそふさわしい。日本では認知症患者の数が25年に700万人と推計されているのである。そして、イギリスの議論には、認知症と法という課題についての基本的な考え方を示すものがある。
それによれば、従来、法は認知症患者を「能力」というレンズを通して見てきた。法の基本には「自律的な能力のある個人」がいて、そうでない人は例外的存在または別世界の人扱いされてきた。「能力」の有無を基準に、いわば白か黒かの二分的思考が適用されてきたのである。確かに、わが国でも現行の成年後見制度は、後見だけでなく、保佐や補助という三分法で「制限行為能力者」を分類しているが、いずれにせよそこでも制限行為「能力」が問題とされており、法が、能力のある人を原則とし、能力の不足した人を例外的存在(つまりは普通でない、望ましくない人)として扱ってきたことは間違いない。
イギリスでは、このような能力アプローチへの反省がなされているという。なぜなら、従来の能力の有無で人を分類する法的アプローチは、単純に過ぎ、かつ精密に対処すべき事案に対してナタで断ち切るような粗雑な対処法だからである。
このようなアプローチに対する反省から、イギリスでは、3つの新たな動きがある。いずれも認知症患者についてその意思や決定能力をできるだけ尊重しようとするものである。第1に、事前の意思決定尊重(precedent autonomy)という考え方(事前のプランニングを法で支える)。第2に、能力が不足している者にも人権はある、そして何らかの意思や自己決定能力があるという権利アプローチ。そして、第3に、vulnerability という概念を中心とするアプローチ。vulnerableとは「弱さ」を示す語であるが、「能力」と比べずっと柔軟で相対的な概念であり、現実的な人間像を基本とする。
能力中心の伝統的アプローチを再検討する必要がわが国にもある。「認知症患者―成年後見制度―能力喪失」の法的認定というような対応は時代遅れである。だが、それでも後見制度利用促進法という発想しかまだこの国にはないようだ。それでは高齢者が有する潜在的な経済力を有効に活用する道は開けてこない。
【21世紀政策研究所】