森本氏
中島研究主幹
経団連総合政策研究所(筒井義信会長)の資本主義・民主主義研究プロジェクト(研究主幹=中島隆博東京大学東洋文化研究所所長)は11月10日、東京女子大学の森本あんり学長を招き、セミナー「民主主義と宗教」をオンラインで開催した。概要は次のとおり。
■ 民主主義の宗教的前提
三権分立の考え方が米国の人々に受け入れられたのは、人は皆罪人だというキリスト教的な人間理解があったからだ。特定の人物に過大な権力を与えるのは危険だという認識から、権力が権力を監視するチェック&バランスが必要だという発想になったのである。
基本的人権の保障にも宗教が貢献している場合がある。ある宗教団体が国旗儀礼(国旗に対する忠誠の誓い)を拒否したことが争われた事件で、連邦最高裁判所は「基本的権利は票決に付されてはならない」と判示し、信教の自由や良心の自由の重要性を強調した。
尊厳や平等という人間の権利に関することは、選挙(多数決)では決められない。選挙を通じて意思決定をしたとしても、集合的な知が歪み、社会が危険にさらされる可能性は大いにある。人間はしばしば選択を誤るという前提を忘れずにいることが、民主主義の要諦だ。
■ キリスト教ナショナリズムの問題点
米国とキリスト教をイコールと考える「キリスト教ナショナリズム」の人口は、賛同者を含めると4割近い。彼らは、米国は建国期から一貫してキリスト教国であるという認識のもと、政教分離を捨ててキリスト教を米国の国教と宣言すべきだと主張する。
しかし、建国の父祖たちは、その内心はどうあれ、制度として米国を無宗教国家にすることを選択し、神という言葉が出てこない「神なき憲法」を作ったのだ。
この神なき憲法こそ、実は米国のキリスト教の活力の源だ。キリスト教が国家の宗教ではなく市民の宗教であるため、自由競争の原理が働いて、教会同士が、あるいは教会と他の娯楽施設とが魅力を競い、人の取り合いをするからこそ、米国ではキリスト教が盛んなのだ。
国家が宗教的になることと、市民が自由に宗教を実践することとは厳密に区別されなければならない。合衆国憲法修正第1条は、前半で政教分離を、後半で信教の自由を定めているが、本当に実現したい法理目的は後半であって、前半はその手段に過ぎないというのが憲法理解である。
例えば、大統領就任式で、新大統領が聖書に手を置いて宣誓するのは、大統領個人の信教の自由によるものであって、米国がキリスト教国家だからではない。仮に将来、他の宗教を信仰する人や無神論者が大統領になれば、それぞれの考えにのっとった方式で誓約するはずである。キリスト教ナショナリズムはこの二つを区別することができていない。
■ リベラリズムはなぜ「つまらない」か
現在、世界中でリベラリズムが退潮し、権威主義や排外主義といった他の価値観が台頭している。
リベラリズム以外の価値観は、人生の意味や国家の善といった「目的」を問うものであるため、明確で面白く、人を引き付ける。
一方、リベラリズムは、政教分離もその一つであるが、各人が目的を問うための環境(土台)であり、「手段」であるから、つまらないのも当然である。しかし、個人が価値や自分の目的を自由に追求するためには、リベラリズムがどうしても必要なのだ。
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セミナー後半では、森本氏と中島研究主幹が対談し、今後の政教分離やリベラリズムのあり方について議論を深めた。参加者からも積極的に質問があった。
