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月刊 経団連 いろんな人と出会い、思い込みを崩す

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為末 大
Deportare Partners代表
元陸上選手
Dai Tamesue
1978年広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2022年12月現在)。現在は執筆活動、会社経営を行う。Deportare Partners代表。新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。Youtube為末大学(Tamesue Academy)を運営。国連ユニタール親善大使。主な著作に『Winning Alone』『走る哲学』『諦める力』など。
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私が代表を務めるDeportare Partnersは、人間の可能性をスポーツで拓くことを目指して、様々なプロジェクトを行っている会社です。例えば、子どもの遊具を作りながら、人が夢中で遊ぶということをどうデザインすればいいか、ということに取り組んでいます。

オリンピック選手にも得意不得意がある

陸上競技の選手としてオリンピックに出場した際、選手村で実感したのは、それぞれ競技によって求められるカタチが違うということです。身体的にも人種的にも物すごく幅があって、例えばうまくボールを投げられない水泳選手がいたり、足が遅いレスリング選手がいたり。それぞれの競技の世界では最高峰にいるはずの人たちなのに、全くできないことがある。そうしたことに気付かされ、不思議に思いました。それが多様性に興味を持った最初のきっかけではないかと思います。「社会的な正しさ」という視点からということよりも、単純に人間に興味があって、「人間を理解したい」と思いました。

肩書を外して夢中で遊ぶときに個性が表れる

人間は、社会的な影響力や自分の肩書で振る舞いがちです。しかし、そうしたものを1枚ずつ皮を剥ぐように外していったとき、真ん中に何が残るのか、本当の自分がいるのだろうかということをいつも考えています。肩書が外れる瞬間というのが社会のなかにはあって、それが「遊び」だと思うのです。皮肉なもので、「自分の個性とは何か」を考えているようなときは、それが表に出ないのですが、何かに夢中になって遊んでいる瞬間の様子を見ると、個性、その人らしさが浮き出てくるように思います。私の世代であればわかると思いますが、『釣りバカ日誌』のスーさんは釣り人の時の方がその人らしいですよね。

肩書が外れた瞬間に必ず訪れるのは、素の自分を評価されるという恐怖感です。「これでみんなから興味を持たれなかったらどうしよう」という気持ち。私の場合、オリンピック選手という肩書があり、これが解かれる瞬間が一番強烈でした。だから、個性を発揮するには、肩書を外しても排除されたり無視されたりしない、心理的に安全な空間をみんなで協力して作ることが大事だと思います。

ぶつかり合いを乗り越えて折り合いをつける

でも、遊びだからなんでもしていいかというと違いますよね。手加減が上手じゃないと遊べないのですよ。例えば、僕が子どもたちとの鬼ごっこで本気を出してしまうと、遊びにはなりませんよね。相手の反応を見て、押してみるとか、弱めてみるとか、波の揺らぎのようなことが、遊んでいる人たちの間では日常的に起きているのだと思います。その中から相手を理解し、みんなでなんとなく成立させていくという営みが「遊び」なのです。

多様性というのはある意味、不快をどの程度許容できるか、折り合いを付けられるか、ということだと思っています。しかし、好奇心を持ってどんどん遠くに広がっていこうとすると、自分のパーソナルスペースが他者と重なる領域が出てきて、そこには必ず不快感やぶつかり合いが生じます。そこをどう折り合うかを学ばないと、世界が広がっていきません。本当はこうしたいのだけれど、その途中でいろんなことが起きてしまい、ちょっと違うかもしれないが、一応ここでいいかな。そういう感じの落としどころを、自分のなかでは持つようにしています。

いろんな人と出会う中で思い込みが崩れていく

思い込みが崩れる瞬間を多く作るほど、自分が自由になるのだと思います。そう思うのは、私の中学校の部活の先生からの影響が大きいのかもしれません。自由にディスカッションをしたり、目標や練習内容も一緒に考えてくれたりする先生でした。人は、相手が教師であれ自由に質問したり、疑問を持ったりしても良くて、相手もそれに応え、そうしたやり取りによってお互いに理解を深めて成長するということ。途中で考えを変えたからといって尊敬を失うことにはならない。こうしたことを学んだわけです。

いろんな人に会う中で、同じことでも全然違う見方をする人がいることを知りました。こちら側から見れば「善」だったのに、別の角度から見たら「悪」だったり、自分は絶対に正しいと思っていたことが、正しくなかったりします。そういう瞬間を多く経験して、徐々に考え方が柔らかくなったのかもしれません。いろんな人と接することで、見方もそれぞれ違うことに気付くと思うので、友だちが多様であるのは重要だと思います。

自分を変えるためにできること

自分を変えるには、まず食わず嫌いをやめる。「俺はこれだ」というこだわりを捨て、気軽に人の誘いに乗ってみる、みたいな行動はすごく重要だと思います。自分より他人の方が、自分のことをよく見ている場合もあります。周りから誘われるのは何かのサインだと思うので、それに乗ってみるのも大事なことかと思います。偶然の出来事に、食い付くべきなのです。その時、目の前にいる人と接することに何のメリットがあるのか分からなくても、一緒に遊ぶことで生まれるものを評価すべきではないでしょうか。

世の中に「善と悪」があるのではなく、自分の「モノの見方」のせいで「善と悪」が生まれることに気付くこと。それが、自分にできることだと思います。自分を苦しめているものも、案外そうした「モノの見方」が原因だったりしませんか。「こう生きなければならない」と思っているのに、そうは生きられない自分がいて、というような。「あなたが何であれ、あなたはそれで良い」という無条件の肯定は、普遍的に大切なことです。「こうだから、あなたは良くて、こうだから、あなたは駄目」という考え方をなるべくなくした方が、話が盛り上がると思います。私自身が今もまさにそれを学んでいる最中です。

信念は死ぬまで仮決めにしかならない

自分自身を空っぽにして、こだわりを持たず、自分の見方が変えられても構わないと思いながら、一方で相手の話を聞かせてもらうということは、ちょっとは意識しているかもしれないですね。

かっちりと輪郭まで固めきったような強さではなくて、「なるほどそういうのもあるね」とか、いろいろな考え方を聞きながら、なんとなく自分の心の奥のほうに、「改めて考えると、やっぱり僕はこれが大事だと思う」というものが、逆に揺るぎなくなっていくっていうか。でもそれ以外は「どうでもよくなっていく」という意味での「強さ、しぶとさ、しなやかさ」が生まれるような気がします。

信念といっても、死ぬまでに「仮決め」にしかならないのではないかと思うのですよね。だから、「暫定的信念」っていえばよいのかな。今のところいろいろ考えたけれど、これが確かそうだと思っている、一方でその一番根幹にある価値観が覆されても構わないっていう状態もとれるっていうのが、一番良い気がしています。

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